袁夫人 | 女性 | 袁術の娘。袁術の死後は他の妻子と共に劉勲の下に身を寄せるが、劉勲を破った孫策に保護され、その後孫権の側室となる。 練師(歩夫人)の死後に皇后に推されるが、これを辞退している。のち、潘夫人の讒言が元で孫権に殺された。 無双ブラストでは「袁姫」として登場。 |
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韋昭 | 男性 | 呉の臣。正史では晋文帝・司馬昭の名を避けて「韋曜」と記されている。 文才があり孫皓に重用されたが態度が反抗的とされて処刑された。 |
賈華 | 男性 | 呉の武将。赤壁の戦いの直後、合肥に出陣した孫権を宋謙と共に護衛した。 劉備が孫権の妹との婚礼のため甘露寺に赴いた際、孫権と呂範の命で兵を潜ませる。 呉国太が劉備を気に入らなかった場合、劉備を斬る手はずだったが、劉備に察知された。 劉備を気に入った呉国太の怒りを買い処刑されそうになるが、劉備のとりなしで命を助けられた。 |
賀斉 | 男性 | 呉の武将。孫策、孫権に仕え、陸遜とともに山越討伐に活躍した。 豪奢な性格で、上質かつ派手な武器、防具、軍船を好んで使用した。 |
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何植 | 男性 | 呉の司徒。孫晧の母・何氏の弟で孫晧の叔父。 279年、司馬炎が呉討伐軍を起こすと、孫晧に対応策を問われた。 |
王惇 | 男性 | 呉の武将。219年、孫権が献帝に献上物を捧げた際、馬の購入を命じられた。 256年、孫慮から孫綝誅殺を持ちかけられるが、発覚して殺された。 |
賈覈 | 男性 | 呉の臣。文章学識を評価され、孫皓の代に右国史となり、韋昭、薛瑩らと共に「呉書」の編纂に当たる。 たびたび孫皓を諌めたが咎は受けず、長らく任用された。 しかし、275年(呉滅亡の五年前)晋への侵攻を諌めるとついに左遷された。 |
郭馬 | 男性 | 呉の合浦太守脩允の私兵隊長。 脩允が死亡して私兵の解散が命じられると、反乱を起こした。反乱は交州一帯に広がり、晋の呉討伐を招いた。 |
闞沢 | 男性 | 呉の幕僚。孫権即位後、尚書、中書令。 後に太子太傅となり、孫和を教育する。呉の暦「乾象暦注」を著し、虞翻から「現代の董仲舒」と称賛された。 |
虞汜 | 男性 | 呉の武将。虞翻の第四子。虞翻の子の中で第一の名声を得た。 陶璜とともに交趾を攻め落とし、晋から交州を奪回した。 |
魏邈 | 男性 | 呉の武将。 孫綝が武昌に駐屯したいと願い出た時、「孫綝を地方に出せば必ず謀反を起こす」と孫休に説いた。 孫綝が武昌に駐屯すると、孫綝が武器と兵士を集め謀反を企てていると奏上。 丁奉の計略で張布が孫綝を討伐した際、丁奉、施朔と共に孫綝の弟たちを捕らえた。 |
嬀覧 | 男性 | 姓の「嬀」の字がゲーム内に存在しない。爲覧とも。 孫翊の部下だったが、同僚の戴員と共に謀反を起こして孫翊を殺害し、その罪を実行犯の辺洪になすりつけてこれも殺害。 さらには孫翊の妾や侍女に手を出したうえに、二人の行為を叱責した孫河も殺害する。 ついには孫翊の妻である徐氏にも言い寄るが、徐氏は「夫の喪が明けるまで待って欲しい」と切りぬける。 その後「喪が明けたから」と呼び寄せられたところを、徐氏が用意していた伏兵によって戴員と共に斬られた。 |
厳畯 | 男性 | 呉の官僚。張昭の推薦で孫権に仕える。 軍事は苦手で(孫権が試したところ馬に乗れなかった)、魯粛の後任になるのを固辞した。 孫権が即位した後、蜀への使者となって諸葛亮に評価された。78歳で死去。著作に「孝経伝」「潮水論」がある。 |
高寿 | 男性 | 呉の武将。孫韶の配下。 225年、魏の曹丕の広陵侵攻に対し、孫韶の指揮で500の兵と共に奇襲をかけて、曹丕の副車と羽蓋を奪う功績を挙げた。 |
伍延 | 男性 | 呉末期の将。晋が呉討伐戦を起こすと、丞相・張悌の献策で都督として江陵に赴任。 攻め寄せた杜預を迎撃するが、同僚の陸景が張尚に斬られ味方が総崩れになると城を捨てて逃走。 その途上、伏兵にあって捕らえられ、杜預の前に連行されて斬られた。 |
谷利 | 男性 | 呉の武将。孫権の側近で、謹直な性格を孫権に賞されて親近監を務めた。 合肥の戦いに随軍し、退却時に孫権の乗馬に鞭を入れ、馬を跳ばし孫権の窮地を救った。 孫権が巨艦の試験航海に出た際に嵐に遭遇すると、孫権の航海続行の命令に反し、舵取りに剣を向けて近くの樊口に行くよう命じた。 孫権から臆病者と誂われるが、孫権を失って呉に影響が出ることを怖れたと答えた。 以後、孫権は谷利を重視し、名前で呼ばず「谷」と呼んで敬意を払われた。 |
呉国太 | 女性 | 『演義』の登場人物。孫堅の第2夫人で、孫朗、孫尚香の母。姉の呉氏は孫堅の第1夫人で孫策、孫権、孫翊を生む。 孫権の代に姉の呉氏が死去し、以後、呉国太と呼ばれる。 赤壁の戦いの前、国論が曹操への降伏と抗戦に割れて悩む孫権に、孫策や姉の遺言を思い出させ、周瑜に相談させる。 後に劉備を気に入って孫尚香の婿に迎えた。 |
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吾彦 | 男性 | 呉の建平太守。西陵の戦いに参戦。 長江を流れる多量の木屑から、晋の軍船建造を察知。その襲来を予見し、鉄鎖で長江封鎖を試みた。 晋の侵攻時は建平郡を死守。呉主・孫皓の降伏を知り、投降する。 |
吾粲 | 男性 | 呉の武将。孫策の死後、孫権が江東で人材を募ったときに参画。 孫和と孫覇が後継者問題で争ったとき、孫和を擁護したため孫覇に讒言され、獄死する。 |
胡綜 | 男性 | 呉の政治家。胡沖の父。幼い頃父を亡くして母と江南に移住し、孫策に見出される。 孫権とは同年代で、机を並べて共に勉強した。孫策没後は孫権に従い、黄祖討伐や夷陵の戦いで活躍する。 晋宗が魏に寝返ると賀斉・糜芳らと共に討伐し、周魴と共に鄱陽の賊を討伐した。 政治面では国政全般の処理に携わり、外交書や官位の任命書、魏の呉質に寝返りを勧める手紙などを起草した。 |
顧譚 | 男性 | 顧雍の孫。諸葛恪らとともに孫登の太子四友となる。 孫和と孫覇が後継を争っているとき、孫和を擁護。孫覇派の全寄らに陥れられ流罪となり、憤死した。 |
胡沖 | 男性 | 呉の中書令。胡綜の子。 晋軍が迫ったため自決しようとした孫晧に対して、光禄勲の薛瑩とともに、蜀帝・劉禅にならって降伏するよう上奏した。 |
左奕 | 男性 | 西陵の歩闡が晋に投降した際、陸抗の指揮下で討伐に向かう。 吾彦、蔡貢らと共に西陵を包囲し、歩闡の救援に来た羊祜、楊肇らを迎撃した。 |
施朔 | 男性 | 呉の武衛士。実権を握っていた孫綝が武昌に駐屯した際、魏邈と共に「孫綝に謀反の動きがある」と呉帝・孫休に奏上した。 丁奉の計画で張布が孫綝を討った後、丁奉、魏邈と協力して孫綝の弟たちを捕らえた。 |
謝旌 | 男性 | 呉の武将。関羽の復讐のため、劉備が宜都(ぎと)に攻め込んだ際、孫桓に従って迎撃。 張苞と30余合渡り合うが、かなわず敗走する。翌日、孫桓を守るために張苞の前に立ちふさがり、ひと突きで討たれた。 |
脩允 | 男性 | 脩則の子。呉将。晋に奪われた交州を陶璜に従軍し取り返し、父の仇の毛炅を捕らえた。 復讐にはやる脩允を陶璜は抑えたが、毛炅が陶璜を襲撃しようと企てた事を知り毛炅を殺害する。 |
周処 | 男性 | 呉の将。周魴の子。若い頃に乱暴狼藉を働き、村の者から猛獣、大蛇と共に三害と忌み嫌われた。 後に改心し学問に打ち込み、孫晧時代の末期は無難督に任じられた。呉滅亡後は晋に仕え、新平や広漢の太守として赴任。 後に中央に入ると外戚や寵臣を遠慮なく糾弾したため、恨みを買う。 後に斉万年の討伐を命じられるが、怨恨から後詰を得られず、奮戦するも戦死した。 |
朱拠 | 男性 | 呉の武将。朱桓の同族。妻は孫魯育。孫権から呂蒙、張温の後継者として期待された。 孫権が帝位に即くと左将軍となって孫権の娘・孫魯育を娶り、後に驃騎将軍まで昇進した。 しかし、二宮の変に巻き込まれ自害した。 |
鍾離牧 | 男性 | 呉の武将。建安、鄱陽、新都三郡で山越族が起こした反乱を平定。 頭目だった黄乱、常倶らを屈服させて功績を上げた。 魏が蜀を滅ぼすと、武陵郡に太守として赴任し、魏と結託した五渓の異民族を制圧。 その功績により公安の督となり、その後、濡須の督に転任した。 |
諸葛靚 | 男性 | 諱の字が常用漢字はおろか特殊漢字にも存在しない。 魏、呉の将。諸葛誕の末子。姉は司馬伷に嫁いでいる。 諸葛誕は反乱を起こした際、呉から援軍を得るために呉綱に命じて諸葛靚を人質として送った。父の死後はそのまま呉に残り官職を歴任。 孫皓が建業から荊州の武昌に遷都した際は、丁固と共に建業の守りに当たり、反乱を起こした施但を鎮圧した。 280年、晋の侵攻が始まると副軍師として参戦し、張悌、沈瑩、孫震らと共に敵将の張喬を降す。 反乱を懸念して皆殺しを進言したが張悌に却下された。 その後、晋軍の攻勢で戦線が崩壊すると、張悌にも撤退するよう腕を引いたが、張悌の決死の覚悟を聞くと涙ながらに撤退した。 呉滅亡後は旧知であった司馬炎から侍中に推されるが固辞する。郷里に戻ると終生朝廷の方に向かって座ることはなかった。 |
徐氏 | 女性 | 孫権の弟・孫翊の妻。才色兼備で卜占に通じる。 孫翊が宴会を開こうとした時、卜占で大凶と出たため中止を勧めるが、孫翊は予定通り酒宴を開き、嬀覧らに暗殺された。 その後嬀覧に再婚を強要され、その場は承知したふりをして孫翊の腹心だった孫高と傅嬰に仇討ちを相談。 孫翊の喪が明けた後、嬀覧達を招き寄せて孫高らに討たせた。 このことで江東の人々から称賛され、後に孫権の館に引き取られ、余生を過ごした。 |
沈瑩 | 男性 | 呉の武将。丹陽太守で、青巾兵と呼ばれる精鋭を率いた。 晋軍が来襲すると、張悌、諸葛靚、孫震と共に迎撃。版橋で張喬を包囲して降伏させた後、張翰(ちょうかん)、周浚と交戦。 三度攻勢をかけるが勝てず、後退したところを薛勝、蒋班、張喬に攻められ敗北。王渾に斬られた。 |
岑昏 | 男性 | 呉の中常侍(宦官)。孫皓の寵愛を受け、これを諌めた濮陽興、張布は孫皓の怒りを買って三族皆殺しとなった。 晋軍が迫ると揚子江を鉄鎖で封鎖する策を進言するも、鉄鎖は晋の王濬によって破られ、晋軍は揚子江を下って侵攻。 その後、呉の陣営では降伏する者が相次ぎ衰退の原因は岑昏にあると上奏され、孫皓が止める間もなく群臣に殺された。 |
盛曼 | 男性 | 呉の将。蜀が滅びた直後の264年、陸抗、歩協、留平らと共に軍勢を率いて旧蜀領へ侵攻する。 しかし、巴東で羅憲を包囲するが胡烈が援軍に来たため撤退した。 |
薛瑩 | 男性 | 呉の官僚・薛綜の子。薛珝の弟。 孫休の代に散騎中常侍となるが一時、病気で辞職。孫皓の代に再び登用され、韋昭、華覈らと共に「呉書」の編纂に当たった。 陸凱が臨終の際、孫皓に送った書状で、楼玄、賀邵、張悌、滕脩、陸抗らと共に呉の根幹を担う臣と記されている。 呉が晋に降伏した時は、降伏文書を起草。晋に仕え、散騎常侍まで昇進した。 |
薛珝 | 男性 | 呉の官僚・薛綜の子。薛瑩の兄。 守大匠(建設大臣代行)となり、呉帝・孫皓から、清廟(孫皓の父・孫和を祀った廟)の正殿と奥殿の造営を命じられた。 269年、虞汜、陶璜らと共に合浦から交趾に攻め込み、その帰途で病死した。 |
全紀 | 男性 | 呉の黄門侍郎。全尚の子。母は孫綝の従姉。 258年、呉帝・孫亮から、暴政を振るう孫綝を討伐するよう密命を受ける。 しかし、父の全尚が計画を妻(全紀の母)に漏らしたため孫綝に露呈し、家族ともども処刑された。 この事件で孫亮も帝位を廃された。 |
全尚 | 男性 | 呉の重臣。全琮の族子。全紀の父。妻は孫峻の姉で、孫綝の従姉。娘が第2代皇帝・孫亮の皇后となる。 子の全紀が呉帝・孫亮から、暴政を振るう孫綝を討伐するよう命じられたことを妻に打ち明ける。 しかし、妻が孫綝に密告したため、計画が事前に発覚。 同じく孫綝討伐を命じられていた劉丞と共に、一族もろとも処刑された。 |
祖茂 | 男性 | 孫堅の武将。二刀流の使い手。 汜水関の戦いで董卓軍の華雄から夜襲を受けた際、孫堅の頭巾を付けて身代わりとなり、華雄に斬られた。 |
孫異 | 男性 | 呉の武将。孫韶の子。 263年、蜀の諸葛瞻からの援軍要請を受け、丁奉、丁封らと共に救援に向かう。 しかし、蜀が魏に降伏したため引き上げた。その後、司馬昭の侵攻を警戒して、南徐の守備についた。 |
孫河 | 男性 | 呉の皇族の一人であり、孫桓の父・孫韶の叔父。 孫堅の族子であったが、俞家の養子となる。孫堅の挙兵に若くして従い腹心として重用され、参加した戦いでは常に先鋒を務めた。 孫堅死亡後、配下の諸将は袁術配下に吸収されるが、呂範と共に孫策に付き従い、旗揚げまでの不遇時代を支え続けた。 独立後は呉や会稽攻略へ従軍し、孫権の代には李術の討伐でも功績を挙げ出世し、廬江太守となる。 だが、孫翊が暗殺された時に巻き添えで殺された。子の孫桓が幼少であったため、彼の軍は甥の孫韶が引き継いだ。 |
孫和 | 男性 | 孫権の三男。孫登の弟。孫覇、孫休、孫亮の兄。孫皓の父。 幼少期は孫権に可愛がられ、闞沢から教育を受けた。孫登の死後、皇太子となる。 しかし、母の王氏と対立した全公主の告げ口によって、孫権から疎まれた。更に弟の孫覇が孫権の寵愛を得たため後継者争いが勃発。 孫和を擁護した陸遜、吾粲、顧譚、朱拠らが罰され、孫和は廃嫡、孫覇は自害を命じられた。 後に諸葛恪に担がれるとの噂が流れ、全公主と通じた孫峻に自害を命じられた。 |
孫歆 | 男性 | 呉の武将。孫堅の甥にあたる孫賁の孫。孫述、孫震の弟。驃騎将軍。 晋が呉討伐戦を起こすと、迎撃に当たる。夏口で杜預軍と交戦し、夜の間に長江を渡った周旨に斬り殺された。 |
孫皎 | 男性 | 孫静の三男。孫瑜の弟。孫権の従弟。 曹操軍が濡須に侵攻するたびに迎撃して食い止め、精鋭と評される。 程普、黄蓋、孫瑜らが死ぬと、後任となり兵を引き継いだ。関羽討伐戦では呂蒙と共に出陣し、荊州平定に大きく貢献している。 些細な理由で甘寧と喧嘩し、孫権に仲裁されたこともある。 |
孫皓 | 男性 | 孫和の子。孫権の孫。呉の最期の皇帝。 264年、第3代皇帝・孫休が死ぬと、万彧、張布から推挙されて皇帝に即位。 宦官の岑昏を重用し、徐々に暴政を敷くようになる。相次ぐ年号の改元、土木工事の乱発などで国民、兵士の恨みを買う。 濮陽興、張布、万彧、留平、楼玄ら重臣はこれを諌めたが次々と処刑した。演義では晋への侵攻を企て、反対した陸抗を降格させた。 279年、晋が呉討伐軍を起こし、翌年に建業まで攻め寄せられると群臣の勧めもあって劉禅に倣い降伏した。 |
孫氏 | 女性 | 孫策の娘。陸遜が孫権に仕えるようになると、孫権の命で陸遜の妻となった。 孫策が江東に進出した際、「呉の四姓」のひとつ・陸家の陸康を討ったため、孫策と陸遜の一族は敵対関係となっていたが、 陸遜が孫権に出仕し、孫氏を妻に迎えたことは両家の和解を象徴する出来事となった。 |
孫秀 | 男性 | 呉の武将。孫権の弟の孫匡の孫。孫皓の代に、前将軍、夏口の督となる。 呉の皇族の中でも特に帝位に近く、大きな兵権を握っていたため、孫皓から警戒された。 270年、身の危険を感じ、妻や子飼いの兵士を連れて晋に亡命、驃騎将軍となる。 この厚遇ぶりから、以後、呉将の晋への亡命が相次いだ。呉の滅亡後、伏波将軍に降格するが、以後も重んじられた。 |
孫邵 | 男性 | 呉の初代丞相。孔融の功曹であったが、後に劉劉繇の下に身を寄せ、孫権が江東の主となると臣従。 様々な献策を行い、朝廷との交渉に際し献上物も送り、よく外交政策を提言した。 丞相就任は張昭ではと目されていたが、孫権の意向で丞相に任じられ、陽羨侯に封じられた。 |
孫紹 | 男性 | 呉の将。孫策の長子。 孫策が早世した際にはまだ幼少であり、先行きを案じた孫策は、跡継ぎとして次弟の孫権を選んだ。 孫権が即位すると、呉侯に封じられ、のちに上虞侯とした。 |
孫震 | 男性 | 呉の武将。孫堅の甥の孫賁の孫。孫述の弟。孫歆の兄。無難の督となる。 晋が呉討伐戦を起こすと、張悌、沈瑩、諸葛靚と共に迎撃に当たり、版橋で張喬を包囲して降伏させる。 しかし張翰・周浚と交戦中に、沈瑩の部隊が薛勝、蒋班、張喬の攻撃を受けて壊滅したため、総崩れとなり敗北。捕らえられて王渾に斬られた。 |
孫覇 | 男性 | 孫権の四男。孫和の兄。妻は劉繇の孫娘。 二宮の変では、孫権から寵愛されたため重臣らを巻き込んで孫和と対立したが、最後は自殺を命じられた。 |
孫輔 | 男性 | 孫堅の甥。孫賁の弟。孫策・孫権の従兄。孫策の挙兵に従い、揚武校尉として江東の平定で孫策を補佐する。 丹陽・宣城・始安などの討伐では歴陽に駐屯し、袁術の介入を防御し、戦乱で離散した江東の民を集めて組織させた。 祖郎討伐では祖郎を捕え、劉勳討伐では先鋒として功績を上げ、廬江太守となる。 孫権の代に曹操に内通したと告発され、流罪となり幽閉されたまま死んだ。 曹操に通じたのは、孫権に江東を守り抜く力がないと判断したからといわれている。 |
孫瑜 | 男性 | 孫堅の弟の孫静の次男。孫権の従兄。孫皎の兄。 孫翊の死後、丹陽太守となり人望を集める。206年には周瑜と共に山越族の麻と保の砦を攻略。 曹操が濡須に進出すると、積極的に打って出ようとする孫権をいさめる。孫権が意見を聞かずに失敗すると奮威将軍となり九江、廬江の勢力拡大に貢献した。 他の諸将が軍務一点張りだった中、古典を愛好し、遠征の途中でも書物を読んだ。学者の馬普を礼遇し、部下に学ばせた。 |
孫亮 | 男性 | 孫権の七男。母は潘氏。孫登、孫和、孫覇、孫休の弟。呉の第2代皇帝。妻は全氏(全尚の娘)。孫和が皇太子を廃されると代わりに皇太子となる。 252年、孫権の没後、10歳で第2代皇帝に即位。聡明で知られていたが、政権は諸葛恪、孫峻、孫綝らに握られた。 258年、孫綝の暴政を憎んで、全紀、劉丞らと共に孫綝討伐を謀るが、全紀の父・全尚が妻(孫綝の従姉)に明かしてしまい計画が発覚。会稽王に落とされた。 孫休の代になると、復位を企てていると噂を立てられ、侯官侯に落とされる。任地に向かう途中に自害もしくは毒殺された。 |
譚雄 | 男性 | 呉の武将。弓と大青龍刀の使い手。 関羽の仇討ちのため荊州に侵攻してきた劉備軍を、孫桓の指揮下で迎え撃った。 緒戦で同僚の李異が蜀の張苞に苦戦すると、張苞の馬を射て助けようとするが、李異は関興に斬られる。 翌日の戦いで関興に捕らえられた後、張苞に斬られ、張苞の乗馬の手向けとされた。 |
張温 | 男性 | 呉の官僚。劉基や顧雍の推挙があり孫権に招かれる。 孫権を始め群臣の評価は高く、孫登の教育係に就いたことあった。 劉備の死後、蜀と呉の同盟への返礼の使者として、蜀を訪れる。外交で蜀の士から高評を得、帰国後は蜀の政治を称えた。 これが孫権の気に障り、さまざまな理由をつけ左遷させられた。 |
張休 | 男性 | 呉の重臣・張昭の末子。張承の弟。諸葛恪、顧譚、陳表と共に孫登の学友となり、孫登に「漢書」を講義した。 兄の張承は別の侯に封じられていたため、張昭の死後、その爵位を受け継いだ。 孫登が若死にすると、中央に戻って侍中、揚武将軍に昇進。 しかし、孫和と孫覇の後継者争いに巻き込まれ、孫覇一味が流した悪評により交州への移住を命じられる。 その後、対立していた孫弘の謀略により自害を命じられた。 |
張儼 | 男性 | 呉の大鴻臚。魏に司馬昭の弔問の使者として訪れた。 賈充らから議論を吹っ掛けられたがすべて論駁した。また、何楨、羊祜らと親交を結んだが帰国の途上で病死した。 |
張紘 | 男性 | 呉の幕僚。張昭と共に「江東の二張」と称された策士。 孫策が江東に進出する直前、周瑜の勧めで張昭と一緒に招かれた。 孫策が江東を制覇すると、成果を献帝に上奏するため許昌へ向かい、曹操と会見。しばらく曹操の元に仕えた。 帰国後は顧雍を推挙し、孫策の後を継いだ孫権を人材登用面で補佐した。 臨終の際、秣陵に拠点を移すように遺言。孫権はこれに従い、秣陵を建業と改めた。 |
張悌 | 男性 | 呉の最後の丞相。若い頃、諸葛恪に取り立てられた。 晋の呉討伐軍が迫ると諸軍を迎撃に当たらせ、自らも沈瑩と諸葛靚を従えて出陣。 晋軍との兵力差を知って降伏を勧める諸葛靚に、「呉が滅びるのは周知の事実。誰も国難に殉じず降伏したとあっては示しがつかない」と決意を語る。 決戦の日、沈瑩と共に晋軍に突撃し、最後まで奮戦して斬り死にした。 |
張布 | 男性 | 呉の左将軍。孫休の側近。孫休が王の時からの臣で、孫休が皇帝になると特別な待遇を受けた。 孫綝討伐後、丞相の濮陽興と共に権勢を振るう。 孫皓が暴政を行うようになると孫皓を即位させたことを後悔し、その言動を密告され、誅殺された。 |
陳表 | 男性 | 呉の武将。陳武の妾腹の子。陳脩の弟。諸葛恪、顧譚、張休と共に皇太子・孫登の学友となる。 曁艶と親しく、官吏任用に失敗した曁艶が罪を得た時は1人だけ曁艶を非難しなかったため評価された。 陳武に倣い将軍になりたいと願い出、授けられた兵士を優遇したので心服される。 234年、諸葛恪と共に山越の討伐に当たり、その後の反乱鎮圧でも帰順を奨励して兵を得た。 34歳で死亡。財産は兵士を優遇するために使い切っており、妻子は孫登に保護された。 |
程秉 | 男性 | 呉の官僚。鄭玄の門人。 戦乱を避け交趾で士燮に仕えていたが、学者としての評判を聞いた孫権から孫登の教育係(太子太傅)を任された。 225年、孫登の婚礼のときには太常となり、孫登の妃を迎える役を務めた。孫権・孫登からも丁重に遇された。『論語弼』などの著作を三万字残した。 |
陶璜 | 男性 | 呉の将。陶濬の兄。薛珝らと共に交州へ進軍。 晋に奪われた交州を楊稷・毛炅らと破り奪回した。交州で優れた統治を行ったため多くの民衆から慕われた。 呉が滅んでからは晋に所属。軍縮を進める司馬炎に反対し、南方の統治に任された。 三十年にわたり南方を威恩をもって治めたため、彼の死には多くの州民が涙した。 |
騰脩 | 男性 | 呉の官僚。孫皓の代に広州刺史となる。 279年、司空就任の直前に郭馬が反乱を起こし、広州牧として討伐に向かった。 まだ平定していないうちに晋軍が呉に攻め込んだので、滕脩は人数を率いて危難に駆けつけたが、 孫晧がすでに降服したと知り、喪服を着け、涙を流しながら引き返した。 降伏したのちは晋からは引き続き以前の職務と、南方の仕事を委任された。 |
陶濬 | 男性 | 呉の武将。陶璜の弟。徐陵の督。 279年、交州で郭馬が反乱を起こすと、討伐に赴いた。しかし、晋の大軍が呉に攻め寄せたため武昌から帰還。 2万の兵を率いて迎撃に当たろうとするが、出陣前に兵が逃亡したため、果たせなかった。 |
董朝 | 男性 | 呉の官僚。孫綝が孫亮を廃立して琅邪王・孫休を新皇帝とした際、孫楷と共に虎林まで孫休を迎えに行った。 孫皓の代には中書令兼司徒となる。丞相の陸凱が臨終の際に孫皓から派遣され、陸凱の遺言を聞き受けた。 |
馬忠 | 男性 | 呉の潘璋の部下。219年、呉が荊州に進攻した際、関羽父子を捕らえた。 その功績で、関羽の乗馬・赤兎馬を与えられるが、赤兎馬は何も食べなくなり、間もなく死ぬ。 222年、関羽の復讐のため劉備が荊州に進軍すると、迎撃に赴く。 緒戦で黄忠を撃退し、主将の潘璋を討った関興を追いつめるなど活躍するが、降将の糜芳と傅士仁に寝首をかかれ、関羽の霊前に供えられた。 |
万彧 | 男性 | 呉の官僚。烏程の役人だった頃、孫皓と親しくなる。 孫皓即位後は右丞相となり、巴丘を守備。 271年、孫皓が民衆に多大な犠牲を強いて各地を巡幸した際、丁奉、留平と都への帰還を相談。 孫皓の怒りを買い、毒酒を飲まされそうになって、自害した。 |
歩協 | 男性 | 呉の重臣・歩隲の子。歩闡の兄。歩隲の死後、爵位を継いで西陵都督となり、王昶、王基らの侵攻を防いだ。 蜀が魏に滅ぼされた後、264年に旧蜀領の巴東を攻撃するが、元蜀将の羅憲に敗れる。 その後、呉軍は陸抗、留平、盛曼らを援軍に出すが、魏からも胡烈が援軍に駆けつけ、攻略できずに撤退した。 |
濮陽興 | 男性 | 呉の丞相。孫権の代に会稽太守となり、当時、会稽にいた孫休と親交を結んだ。 孫休が即位すると、太常、衛将軍を経て、丞相に就任。孫休のもう1人の寵臣・張布と結託して政治を思いのままにした。 孫皓即位後、万彧の謀略にかかり交州に流される途中、孫皓の命で殺された。 |
歩騭 | 男性 | 呉の丞相。練師は彼の同族にあたる。 210年、交州刺史となり、蒼梧太守の呉巨を討伐。さらに士燮を服従させ、呉の南方進出の足がかりを作った。 孫権即位後は驃騎将軍、西陵都督に就任。陸遜の死後、丞相となった。 |
歩闡 | 男性 | 呉の重臣・歩隲の子。歩協の弟。歩協の死後、西陵都督の座を受け継ぐ。 272年、孫皓から領地変更を通達されるが、父の代から受け継いだ任地から離れることを拒否。西陵に留まり、晋に降って交州牧に任ぜられた。 晋からは羊祜、楊肇らが援軍に駆けつけたが、呉から派遣された陸抗、左奕、吾彦、蔡貢らに敗北。 孤軍で西陵に籠城するが、力尽きて降伏し、一族もろとも皆殺しにされた。 |
孟宗 | 男性 | 呉の官僚。母親への孝行で有名で孟宗竹の語源となる。孫皓が即位すると字を避けて孟仁と改名した。 母親が亡くなると、勝手に任地を離れたら死罪という法を知りながら葬儀に駆けつけ、後に自首。 陸遜の弁護で、孫権から特例として許された。復帰後は孫綝らによる孫亮の廃位に加わっている。 光禄勲、御史大夫を経て、司空まで昇進した。 |
駱統 | 男性 | 孫権の武将。陳国の相・駱俊の子。 父が袁術に討たれ、母が華歆の側室になると、母と別れて会稽に戻った。 212年、会稽太守の孫権に登用され烏程の相となり、行き届いた統治を住民から称賛された。 凌統が死ぬと凌統配下の兵を指揮下に加える。 夷陵の戦いでは陸遜の指揮下で功績を上げ、偏将軍に就任。直後、濡須に攻め寄せた曹仁も破り、濡須の督となる。 |
李異 | 男性 | 呉の武将。金鍍金の大斧を使う。 219年、陸遜の指揮下で謝旌と共に荊州を攻め、詹晏らを破り、陳鳳を捕らえた。 221年、荊州に攻め寄せた蜀の呉班、馮習に敗れる。翌年、陸遜が夷陵で蜀軍を大破すると、劉阿と共に南山まで追撃した。 |
陸胤 | 男性 | 呉の政治家、武将。陸凱の弟。陸遜の一族で子の世代に当たる。 孫和に礼遇されるが、二宮の変に巻き込まれ、孫覇の立太子工作を聞いた孫和に求められ、陸遜に上奏を依頼する。 これを聞いた孫覇派の楊竺は、陸胤を密告者として孫権に讒訴し、投獄された。 拷問を受けるが、孫和を守るためにその名を一度も口に出さずに耐え抜いた。 二宮の変を生き残った後は衡陽督となり、交州で趙嫗の反乱が起きると交州刺史として乱を鎮圧する。 高涼の黄呉を投降させ、安南将軍として蒼梧の賊も平定した。 華覈が中央に召還するよう孫休に推薦したが、間もなく没した。 |
陸鬱生 | 女性 | 張温の弟・張白の妻。陸績の娘で、陸績が鬱林太守であった時に生まれた。 13歳で張白に嫁ぐも、三か月後もしないうちに夫に先立たれ、未亡人となる。 その後、たびたび有力者から再婚の勧めがあったが拒否し、生涯操を立てた。 |
陸景 | 男性 | 陸抗の二男。張昭の曾孫、諸葛瑾の孫にあたる。 父の死後、兄陸晏とともに後を継いで孫皓に仕え、公主を娶るなど重用された。 しかし、280年2月、晋が侵攻してきたとき、夷道・楽郷城の戦いで晋の将軍王濬らに敗れ、兄や虞忠とともに殺害された。 |
陸績 | 男性 | 呉の官僚。「呉の四姓」陸家の出であり、陸康の子・陸遜の又従兄弟。 6歳で袁術と対面した時、懐に蜜柑を入れたのをとがめられると、「母上に差し上げようと思ったのです」と言って袁術に感心される。 博学多識で天文、暦法、算術に通じ、「渾天図」を著す。 正しいと思うことを遠慮せずに発言したため、孫権に煙たがられ、鬱林太守に出向となった。 |
劉基 | 男性 | 劉繇の息子。呉の官僚。娘は孫覇の妻になっている。 父の死後、王朗の勧められた孫策から招かれ礼遇された。孫権からの扱いも同様で、幕府に招かれ官途に就いた。 孫権が酔った勢いで虞翻を殺害しようとすると懸命に諌めた。 孫権は反省し、酒を三度呑んだときの殺害命令は聞かないよう周囲に厳命したという。 以後も、船上で酒宴で雷雨に見舞われたときに孫権以外にただ一人だけ傘を許されるなど厚遇された。 |
劉丞 | 男性 | 呉の武将。呂拠と共に孫綝討伐を図った滕胤を攻め滅ぼした。 その後、丞相の孫綝が暴政を働くようになると、孫亮による孫綝殺害計画に参加する。 しかし、計画の途中で孫綝に知られ、孫綝の弟・孫恩に攻められ、死亡した。 |
楼玄 | 男性 | 呉の官僚。孫休の代に監農御史となり、孫皓の代には散騎中常侍、会稽太守、大司農を歴任する。 しかし、歯に衣着せぬ物言いと名声の高さを孫皓に恨まれた。 後に、賀斉の子・賀邵と共に孫皓の政治を非難したと密告され、息子の楼拠ともども交州に流される。 張奕の下で反乱鎮圧などに活躍するが、孫皓から殺害命令が出ていることを知り、自害した。 |
魯淑 | 男性 | 呉の武将。魯粛の子。濡須督・張承に見込まれ、後継者と目された。 孫休の代に武昌の督、孫皓の代には夏口の督となる。任地では常に厳正な統治を行った。 273年、薛瑩と共に10万と号する兵を率いて晋に出兵したが、弋陽の戦いで王渾に撃退された。翌年に死去し、子の魯睦が後を継いだ。 |