曹芳 | 男性 | 魏の明帝・曹叡の養子。魏の第三代皇帝。曹叡の死後、わずか8歳で即位。 当初は曹爽に政権を掌握されるが、249年に司馬懿が曹爽を打倒した後は、司馬一族が政治を取り仕切った。 254年、自らをないがしろにする司馬師を憎み、夏侯玄、李豊、張緝らに司馬一族打倒の密勅を与えるが、露見。 夏侯玄らと張緝の娘に当たる張皇后は殺され、自らは斉王に格下げされた。 |
棗祗 | 男性 | 後漢末の将。董卓討伐に従事した後、兗州牧曹操に出仕。 張邈・陳宮らの造反に対し、棗祗は東阿の官民を統率して守備を固めた。 陳宮は直接東阿を攻撃するが、程昱が倉亭津を破壊したので行軍が遅れ、結局失敗した。 羽林監時代、韓浩らと共に曹操に屯田制の実行を進言。最初、曹操は採用を躊躇うが、採用を熱弁したため、屯田都尉を拝命し実施に当たる。 屯田は顕著な成果を挙げ、後に任峻が大々的に展開し、曹操陣営の軍事力は飛躍した。 |
倉慈 | 男性 | 魏の政治家。淮南での屯田で綏集都尉を務める。曹丕の代に長安令となり、曹叡が即位すると敦煌太守となる。 敦煌は戦乱の中で隔絶され統治されていない状態だったが、倉慈が赴任すると、土地の権力者を押さえ、貧しい民を救済した。 土地を民に振り分け、法治のもとに裁決を下した。西域との貿易で公平な利益が出るよう取り計らい、異民族はその徳を讃えて服した。 数年この職を務めて在官のまま没し、官民は悲しみながら倉慈の遺像や祠を立てて慕い祀ったという。 |
曹沖 | 男性 | 曹操の子。母は環氏。曹拠、曹宇の兄。年少期から聡明で理解力に優れていた。 202年、孫権から象が献上された際、群臣の中で1人だけ象の重さの量り方を考案し、曹操を喜ばせた。 判断力、仁愛の情を曹操から愛されていたが、13歳で病没。名医の華佗を処刑したことを曹操に後悔させた。 曹丕も「倉舒(曹沖の字)が生きていたら私は後継者になれなかっただろう」と漏らしている。 |
蘇則 | 男性 | 魏の政治家、武将。酒泉、安定、武都の太守を歴任し、その統治に威名があった。 曹操の張魯討伐の際に見出され、軍を先導。張魯が投降すると下弁の氐族、金城の羌族を慰撫する。涼州の民心を安定させ農耕技術を教えたため、数千家が帰順した。 麹演が涼州で大規模な乱を起こすと郝昭らと平定に従事し、偽降してきた麹演を斬った。 曹丕が禅譲を受けて後漢が滅ぶと慟哭した。曹丕の狩猟に随行した際に、過失を侵した官を斬ろうとした曹丕を諌める。 これを曹丕に疎まれて左遷され、任地の東平に向かう途上で没した。 |
張既 | 男性 | 魏の官僚。曹操が司空になると召還された。 袁尚軍との戦いでは鍾繇の命で馬騰を説得し、馬超らに郭援を討たせた。 曹操が荊州攻略に動き出すと、後顧の憂いを絶つために馬騰に出仕を促して馬超に軍勢を統率させる。 馬超が反乱を起こすと、曹操に従い鎮圧に当たった。 魏建国後は尚書、雍州刺史となり、張魯討伐、劉備との漢中攻防戦に参加する。曹丕即位後は異民族の反乱平定に奔走した。 |
趙娥 | 女性 | 龐子夏の妻、龐淯の母。龐娥と呼ばれることもある。 父・趙安が祿福県の李寿に殺害されため、病死した三人の弟に代わって復讐を誓う。 名刀を袖に隠し持ち、ある日の白昼に李寿を狙って車で出かけると、はたして李寿に遭遇したので、罵って斬りかかった。 李寿は馬から振り落とされたが、刀が樹にぶつかって折れたため、抵抗する李寿の喉を手で突いて怯ませ、剣を奪って首を斬った。 復讐を果たすとそのまま役所に出向き、法の裁きを受けようとしたが、しのびなく思った県長や守尉らの計らいで家に戻された。 ちょうど恩赦があったためこれにより赦免となり、彼女の行いは各地で顕彰されることになった。 |
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趙昂 | 男性 | 天水の参軍事。妻は王異。馬超に対し挙兵し、楊阜と協力して退けた。 漢中で戦死した益州刺史・趙顒と同一人物という説がある。 |
張節 | 男性 | 魏の臣。曹奐に向かって禅譲を迫る司馬炎を罵倒する。激怒した司馬炎は部下に命じて棍で打ち殺させた。 |
張特 | 男性 | 魏の武将。牙門将軍を経て合肥新城の守将となり、その功績で列侯に封じられた上で雑号将軍・安豊太守となった。 253年、諸葛恪に包囲され、兵力の半分および城壁を崩されると 「魏の法律では100日以内に援軍が来なければ降伏しても罪を問われない。あと数日で降伏するので待ってほしい」と呉軍に申し出る。 呉軍が攻撃を中止するとその間に城壁を修復。戦闘を再開して諸葛恪に矢を射当て、呉軍が暑さと疫病で退却するまで戦い抜いた。 この功績で |
陳瑀 | 男性 | 魏の幕僚。陳本、陳騫の父。 孫策や袁術からの任用を断り、陳登と共に曹操に付き孫策の侵攻を防いだ。赤壁の戦いの後、曹仁と共に江陵を守る。 攻め寄せた周瑜を迎撃し、周瑜戦死の偽報に乗せられて曹仁が出陣している間、城を守備した。 後に中央に移って魏郡太守となり、漢中討伐の後、尚書に就任。尚書令を経て、司徒まで昇った。 |
丁儀 | 男性 | 魏の官僚。曹植の腹心。丁沖の子。丁廙の兄。 斜視を理由に縁談を曹丕に阻まれたこともあり楊修、丁廙と共に、曹植を曹操の後継者にすべく画策。 曹丕が後継者に決まると、不遇を恨む曹植と共に飲酒にふけった。 曹操没後に曹丕が魏王となると、葬儀に出席しない曹植を詰問する使者に「曹植が魏王になるべきだった」と言い放つ。 果たして曹丕の怒りを買って殺されたが、その文才は死後多くの人々に惜しまれたほど優れたものだった。 |
鄭渾 | 男性 | 魏の政治家。鄭泰の弟。淮南に避難し袁術に厚遇されたが、後に華歆の下に投じ、曹操に召された。 任地で桑畑や稲田を奨励して豊かにさせ、人々に喜ばれ「鄭」を字にする男女が増加するほどだった。 その後、関中に赴任して梁興に対抗して民心を安定させ、夏侯淵の梁興討伐を支援した。 京兆尹でも農業を推進し、曹操の漢中侵攻の兵站を担い賞賛される。 曹丕の代にも痩せた土地で灌漑を行って民を利し、曹叡によって治績が全国に公布された。 |
丁氏 | 女性 | 曹操の初代正室。子に恵まれず、生母を亡くした曹昂を代わりに愛育した。 宛城の戦いで愛する子を失った悲嘆で、彼女と曹操の仲は冷え込んでしまう。 曹操は気持ちが修復するのを待つため一旦は彼女を実家に帰らせるが、心の溝は終生埋まらず、そのまま離縁した。 |
丁斐 | 男性 | 曹操の同郷人。賄賂を得たり、上司の牛を盗んだりと品行に優れなかったが曹操は側に置いた。 馬超との戦いで曹操の渡河中に馬超軍が追いすがった時には、陣中の牛馬を全て放つことで馬超軍の気をそらして曹操の危機を救った。 典軍校尉に復帰後数年で病死。 |
丁謐 | 男性 | 丁斐の子。明帝(曹叡)のとき度支郎中として召された。 斉王曹芳が立つと、散騎常侍となり、尚書に転じて、曹爽に重んじられた。 しばしば人を弾劾し、貴人を侮蔑したので憎まれた。正始十年(249)、司馬懿の起こした政変により殺された。 |
杜畿 | 男性 | 魏の官僚。杜恕の父、杜預の祖父。荀彧の推薦で曹操に仕える。 河東太守として農業生産の回復、軍事訓練、学校開設などに尽力する。 馬超の反乱では、兵糧の調達をすべて河東郡でまかない、漢の蕭何に並び称された。 魏建国後は尚書僕射などを歴任。曹丕が呉を攻めた際は留守を任される。 その後、皇帝の御座船建造の指揮を執るが、試走中に船が転覆し溺死した。 |
杜恕 | 男性 | 杜畿の子。杜預の父。曹叡(明帝)の時代に散騎黄門侍郎に就くが、中央にいること八年、常に正論をもって意見を述べた。 その後は性格の為に周囲とうまく合わせる事ができなずしばしば外地の任務に就いたが、 幽州刺史のときに過失から程喜により弾劾され平民に落とされた。 その後、暇な身分を利用して8節の『体論』と1篇の『興性論』という書を著し、章武郡で没した。 |
馬鈞 | 男性 | 魏の科学者。若い時は遊び暮らしていたが、生活に苦しくなり織機を改良。発明の才能を開花させる。 魏に仕えてからも様々な発明をし、曹叡に指南車、水車、機械仕掛けの人形などを献上した。 連弩や投石車の改良なども構想し、晋の傅玄から「天下に名高い器用者」と評された。 |
畢軌 | 男性 | 魏の官僚。若い頃から名声があり、明帝から重用された。 并州刺史となるが異民族討伐に失敗し、蒋済の進言で中央に戻った。 後に曹爽が実権を握ると取り巻きの一人となり、司馬懿のクーデターの折に始末された。 |
傅幹 | 男性 | 初め馬騰に仕え、袁尚や高幹と手を結ぼうとするのを止めさせ、曹操への協力を説いた。 その後、曹操配下に転じてからは、劉備の益州攻めの成功を予見した。 また、建安19年(214年)秋7月、曹操が孫権を討伐しようとすると、徳をもって懐柔するのが良いとして征伐を諌めたが、聞き入れられなかった。 結局この征伐は、捗捗しい戦果を残せずに終わっている。 |
卞氏 | 女性 | 曹操の妻。曹丕、曹彰、曹植、曹熊の母。 元は側室だったが、正室の丁氏が離縁させられると、代わりに正室となった。 謙虚な人柄で、倹約家。曹操が死んだという誤報を受けても動じない冷静さを備えていた。 離縁された丁氏を礼遇し、曹操の子で母を亡くした者をすべて養育した。 |
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毛玠 | 男性 | 曹操の幕僚。崔琰と共に官吏選抜を担当。 清廉公明な人選で堅苦しいと苦情が出るほどだったが、曹操に擁護された。 216年、崔琰の処刑に不満を漏らしたと訴えられ入獄。桓階、和洽の弁護で死は免れるが、免職された。 |
孟建 | 男性 | 諸葛亮、徐庶、石韜と共に荊州で遊学し、諸葛亮から「刺史か郡守の器」と評される。 魏に仕え、温恢の死後に涼州刺史となり、優れた政治手腕を発揮し征東将軍まで昇進している。 諸葛亮は北伐で祁山に出陣した際、司馬懿からの書状の返答を持ち帰る杜襲に「公威(孟建の字)によろしく」と伝えさせている。 |
游楚 | 男性 | 魏の官僚。父の游殷が張既を気に入り息子の将来を託したことから、父の死後、張既に推挙され曹操に仕える。 涼州方面の太守を歴任したが、どの任地でも恩恵をもって統治した。 諸葛亮の第一次北伐が開始されると、天水・南安二郡の領民は蜀軍に呼応して太守を追放したが、 隴西太守であった游楚は、利害を説いて領民を説得し十日余りの攻勢を防ぎきった。 この功を以って列侯に封ぜられ、昇殿すらも許された。 |
劉靖 | 男性 | 魏の武将、政治家。劉馥の子。 河南尹となると民に農蚕の指導を行い、治安向上や防災政策、官吏の綱紀を引き締める仁政を行い、劉馥の遺風を継いだと賞賛された。 鎮北将軍・仮節都督・河北諸軍事に任じられると、侵犯する異民族ごとに防衛策を策定し、北辺の守備に功績を上げた。 薊で堤防を築いて戻陵堰を修復し、灌漑を整備し稲作を奨励して民を利した。 |
劉馥 | 男性 | 曹操の揚州刺史。袁術配下の戚奇と秦翊を説き伏せ、共に曹操に仕えた。 曹操が袁紹一族との戦いに奔走している間、揚州刺史に携わり、梅乾、雷緒、陳蘭の横行に対処した。 以後は学校建設、屯田、堤防や灌漑の整備・合肥の城壁強化など数々の功績を上げた。 建安13年(208年)に死去したが、劉馥が築いた合肥の一大拠点は、孫権軍の合肥攻撃を撃退する上で大いに貢献した。 |
梁習 | 男性 | 魏の并州刺史。曹操が司空になると、召し抱えられて各地の県令を歴任し、功績を上げた。 曹操が高幹を討伐して并州を支配した後、并州刺史となり、匈奴を恭順させて辺境地帯に平穏をもたらした。 曹丕の代にも并州刺史に就任し、辺境経営の功績は天下第一と評される。曹叡の代に中央に戻り、大司農に任ぜられた。 |
令狐愚 | 男性 | 魏の官僚。王凌は叔父にあたる。本名は令狐浚であったが、 些細なことで田豫を批判したことを曹丕に咎められ投獄された後に「愚」と諱を改めた。 249年、皇帝(曹芳)が若年であるため司馬一族の専横を許していると考え、 強大な軍権を有していた叔父の王凌を首謀者に仕立て上げて皇族で年長の曹彪を皇帝に擁立しようと目論む。 しかし、令狐愚は計画の途中で病気に罹り死去した。 |
婁圭 | 男性 | 曹操の幕僚。諸侯が董卓打倒の軍を起こした時、荊州の北境で兵を集め、劉表と同盟を結ぶ。 その後、曹操に仕え、軍事など国家の大計には必ず参画。 馬超の討伐では多大な功績を上げ、曹操に「子伯(婁圭の字)の立てる計略は、わしも及ばぬ」と評された。 しかし、後に不遜な発言をしたため、曹操に処刑された。 演義では夢梅居士と号し、渭水の戦いで馬超軍の夜襲に悩む曹操に、寒気を利用して氷の城を作るよう教えた。 |