張悌 | 男性 | 呉の最後の丞相。若い頃、諸葛恪に取り立てられた。 晋の呉討伐軍が迫ると諸軍を迎撃に当たらせ、自らも沈瑩と諸葛靚を従えて出陣。 晋軍との兵力差を知って降伏を勧める諸葛靚に、「呉が滅びるのは周知の事実。誰も国難に殉じず降伏したとあっては示しがつかない」と決意を語る。 決戦の日、沈瑩と共に晋軍に突撃し、最後まで奮戦して斬り死にした。 |
張布 | 男性 | 呉の左将軍。孫休の側近。孫休が王の時からの臣で、孫休が皇帝になると特別な待遇を受けた。 孫綝討伐後、丞相の濮陽興と共に権勢を振るう。 孫皓が暴政を行うようになると孫皓を即位させたことを後悔し、その言動を密告され、誅殺された。 |
陳表 | 男性 | 呉の武将。陳武の妾腹の子。陳脩の弟。諸葛恪、顧譚、張休と共に皇太子・孫登の学友となる。 曁艶と親しく、官吏任用に失敗した曁艶が罪を得た時は1人だけ曁艶を非難しなかったため評価された。 陳武に倣い将軍になりたいと願い出、授けられた兵士を優遇したので心服される。 234年、諸葛恪と共に山越の討伐に当たり、その後の反乱鎮圧でも帰順を奨励して兵を得た。 34歳で死亡。財産は兵士を優遇するために使い切っており、妻子は孫登に保護された。 |
程秉 | 男性 | 呉の官僚。鄭玄の門人。 戦乱を避け交趾で士燮に仕えていたが、学者としての評判を聞いた孫権から孫登の教育係(太子太傅)を任された。 225年、孫登の婚礼のときには太常となり、孫登の妃を迎える役を務めた。孫権・孫登からも丁重に遇された。『論語弼』などの著作を三万字残した。 |
陶璜 | 男性 | 呉の将。陶濬の兄。薛珝らと共に交州へ進軍。 晋に奪われた交州を楊稷・毛炅らと破り奪回した。交州で優れた統治を行ったため多くの民衆から慕われた。 呉が滅んでからは晋に所属。軍縮を進める司馬炎に反対し、南方の統治に任された。 三十年にわたり南方を威恩をもって治めたため、彼の死には多くの州民が涙した。 |
騰脩 | 男性 | 呉の官僚。孫皓の代に広州刺史となる。 279年、司空就任の直前に郭馬が反乱を起こし、広州牧として討伐に向かった。 まだ平定していないうちに晋軍が呉に攻め込んだので、滕脩は人数を率いて危難に駆けつけたが、 孫晧がすでに降服したと知り、喪服を着け、涙を流しながら引き返した。 降伏したのちは晋からは引き続き以前の職務と、南方の仕事を委任された。 |
陶濬 | 男性 | 呉の武将。陶璜の弟。徐陵の督。 279年、交州で郭馬が反乱を起こすと、討伐に赴いた。しかし、晋の大軍が呉に攻め寄せたため武昌から帰還。 2万の兵を率いて迎撃に当たろうとするが、出陣前に兵が逃亡したため、果たせなかった。 |
董朝 | 男性 | 呉の官僚。孫綝が孫亮を廃立して琅邪王・孫休を新皇帝とした際、孫楷と共に虎林まで孫休を迎えに行った。 孫皓の代には中書令兼司徒となる。丞相の陸凱が臨終の際に孫皓から派遣され、陸凱の遺言を聞き受けた。 |
馬忠 | 男性 | 呉の潘璋の部下。219年、呉が荊州に進攻した際、関羽父子を捕らえた。 その功績で、関羽の乗馬・赤兎馬を与えられるが、赤兎馬は何も食べなくなり、間もなく死ぬ。 222年、関羽の復讐のため劉備が荊州に進軍すると、迎撃に赴く。 緒戦で黄忠を撃退し、主将の潘璋を討った関興を追いつめるなど活躍するが、降将の糜芳と傅士仁に寝首をかかれ、関羽の霊前に供えられた。 |
万彧 | 男性 | 呉の官僚。烏程の役人だった頃、孫皓と親しくなる。 孫皓即位後は右丞相となり、巴丘を守備。 271年、孫皓が民衆に多大な犠牲を強いて各地を巡幸した際、丁奉、留平と都への帰還を相談。 孫皓の怒りを買い、毒酒を飲まされそうになって、自害した。 |
歩協 | 男性 | 呉の重臣・歩隲の子。歩闡の兄。歩隲の死後、爵位を継いで西陵都督となり、王昶、王基らの侵攻を防いだ。 蜀が魏に滅ぼされた後、264年に旧蜀領の巴東を攻撃するが、元蜀将の羅憲に敗れる。 その後、呉軍は陸抗、留平、盛曼らを援軍に出すが、魏からも胡烈が援軍に駆けつけ、攻略できずに撤退した。 |
濮陽興 | 男性 | 呉の丞相。孫権の代に会稽太守となり、当時、会稽にいた孫休と親交を結んだ。 孫休が即位すると、太常、衛将軍を経て、丞相に就任。孫休のもう1人の寵臣・張布と結託して政治を思いのままにした。 孫皓即位後、万彧の謀略にかかり交州に流される途中、孫皓の命で殺された。 |
歩騭 | 男性 | 呉の丞相。練師は彼の同族にあたる。 210年、交州刺史となり、蒼梧太守の呉巨を討伐。さらに士燮を服従させ、呉の南方進出の足がかりを作った。 孫権即位後は驃騎将軍、西陵都督に就任。陸遜の死後、丞相となった。 |
歩闡 | 男性 | 呉の重臣・歩隲の子。歩協の弟。歩協の死後、西陵都督の座を受け継ぐ。 272年、孫皓から領地変更を通達されるが、父の代から受け継いだ任地から離れることを拒否。西陵に留まり、晋に降って交州牧に任ぜられた。 晋からは羊祜、楊肇らが援軍に駆けつけたが、呉から派遣された陸抗、左奕、吾彦、蔡貢らに敗北。 孤軍で西陵に籠城するが、力尽きて降伏し、一族もろとも皆殺しにされた。 |
孟宗 | 男性 | 呉の官僚。母親への孝行で有名で孟宗竹の語源となる。孫皓が即位すると字を避けて孟仁と改名した。 母親が亡くなると、勝手に任地を離れたら死罪という法を知りながら葬儀に駆けつけ、後に自首。 陸遜の弁護で、孫権から特例として許された。復帰後は孫綝らによる孫亮の廃位に加わっている。 光禄勲、御史大夫を経て、司空まで昇進した。 |
駱統 | 男性 | 孫権の武将。陳国の相・駱俊の子。 父が袁術に討たれ、母が華歆の側室になると、母と別れて会稽に戻った。 212年、会稽太守の孫権に登用され烏程の相となり、行き届いた統治を住民から称賛された。 凌統が死ぬと凌統配下の兵を指揮下に加える。 夷陵の戦いでは陸遜の指揮下で功績を上げ、偏将軍に就任。直後、濡須に攻め寄せた曹仁も破り、濡須の督となる。 |
李異 | 男性 | 呉の武将。金鍍金の大斧を使う。 219年、陸遜の指揮下で謝旌と共に荊州を攻め、詹晏らを破り、陳鳳を捕らえた。 221年、荊州に攻め寄せた蜀の呉班、馮習に敗れる。翌年、陸遜が夷陵で蜀軍を大破すると、劉阿と共に南山まで追撃した。 |
陸胤 | 男性 | 呉の政治家、武将。陸凱の弟。陸遜の一族で子の世代に当たる。 孫和に礼遇されるが、二宮の変に巻き込まれ、孫覇の立太子工作を聞いた孫和に求められ、陸遜に上奏を依頼する。 これを聞いた孫覇派の楊竺は、陸胤を密告者として孫権に讒訴し、投獄された。 拷問を受けるが、孫和を守るためにその名を一度も口に出さずに耐え抜いた。 二宮の変を生き残った後は衡陽督となり、交州で趙嫗の反乱が起きると交州刺史として乱を鎮圧する。 高涼の黄呉を投降させ、安南将軍として蒼梧の賊も平定した。 華覈が中央に召還するよう孫休に推薦したが、間もなく没した。 |
陸鬱生 | 女性 | 張温の弟・張白の妻。陸績の娘で、陸績が鬱林太守であった時に生まれた。 13歳で張白に嫁ぐも、三か月後もしないうちに夫に先立たれ、未亡人となる。 その後、たびたび有力者から再婚の勧めがあったが拒否し、生涯操を立てた。 |
陸景 | 男性 | 陸抗の二男。張昭の曾孫、諸葛瑾の孫にあたる。 父の死後、兄陸晏とともに後を継いで孫皓に仕え、公主を娶るなど重用された。 しかし、280年2月、晋が侵攻してきたとき、夷道・楽郷城の戦いで晋の将軍王濬らに敗れ、兄や虞忠とともに殺害された。 |
陸績 | 男性 | 呉の官僚。「呉の四姓」陸家の出であり、陸康の子・陸遜の又従兄弟。 6歳で袁術と対面した時、懐に蜜柑を入れたのをとがめられると、「母上に差し上げようと思ったのです」と言って袁術に感心される。 博学多識で天文、暦法、算術に通じ、「渾天図」を著す。 正しいと思うことを遠慮せずに発言したため、孫権に煙たがられ、鬱林太守に出向となった。 |
劉基 | 男性 | 劉繇の息子。呉の官僚。娘は孫覇の妻になっている。 父の死後、王朗の勧められた孫策から招かれ礼遇された。孫権からの扱いも同様で、幕府に招かれ官途に就いた。 孫権が酔った勢いで虞翻を殺害しようとすると懸命に諌めた。 孫権は反省し、酒を三度呑んだときの殺害命令は聞かないよう周囲に厳命したという。 以後も、船上で酒宴で雷雨に見舞われたときに孫権以外にただ一人だけ傘を許されるなど厚遇された。 |
劉丞 | 男性 | 呉の武将。呂拠と共に孫綝討伐を図った滕胤を攻め滅ぼした。 その後、丞相の孫綝が暴政を働くようになると、孫亮による孫綝殺害計画に参加する。 しかし、計画の途中で孫綝に知られ、孫綝の弟・孫恩に攻められ、死亡した。 |
楼玄 | 男性 | 呉の官僚。孫休の代に監農御史となり、孫皓の代には散騎中常侍、会稽太守、大司農を歴任する。 しかし、歯に衣着せぬ物言いと名声の高さを孫皓に恨まれた。 後に、賀斉の子・賀邵と共に孫皓の政治を非難したと密告され、息子の楼拠ともども交州に流される。 張奕の下で反乱鎮圧などに活躍するが、孫皓から殺害命令が出ていることを知り、自害した。 |
魯淑 | 男性 | 呉の武将。魯粛の子。濡須督・張承に見込まれ、後継者と目された。 孫休の代に武昌の督、孫皓の代には夏口の督となる。任地では常に厳正な統治を行った。 273年、薛瑩と共に10万と号する兵を率いて晋に出兵したが、弋陽の戦いで王渾に撃退された。翌年に死去し、子の魯睦が後を継いだ。 |