于毒 | 男性 | 黒山系の独立勢力。眭固や白繞とともに10余万の大軍を率いて挙兵し、曹操、袁紹らと争うも最後は滅ぼされた。 |
衛茲 | 男性 | 張邈の武将。曹操の挙兵を助け、徐栄との戦いで戦死した。曹操は彼の死を惜しみ祭祀を絶やさなかったという。 |
袁遺 | 男性 | 袁紹らの従兄。優れた学者であった。後漢の山陽太守。 反董卓同盟に第八鎮として参加。虎牢関の戦いに従軍し、呂布に敗れた王匡を救援した。 |
袁隗 | 男性 | 袁紹、袁術らの叔父。妻は馬融の娘。三公にたびたび就任した。反董卓連合が結成されると董卓に殺害された。 |
王叡 | 男性 | 王祥の叔父。荊州刺史。反董卓連合の折、不仲の曹寅を殺そうとするも逆に計られ、孫堅に攻められ自害した。 |
王越 | 男性 | 霊帝の時の虎賁中郎将。剣術の名人で、都で名声が高かった。曹丕の剣術の師匠・史阿の師匠。 |
王匡 | 男性 | 後漢の河内太守。何進に召され強弩兵を連れて洛陽に向かうが、何進が死んだため郷里に戻った。 董卓との戦では返り討ちに遭い、後に胡母班、曹操に攻め殺された。 |
王建 | 男性 | 公孫淵の燕国の相国。 司馬懿の攻勢に降伏の使者となったが、司馬懿がそれを許さず捕縛・斬首された。 司馬懿の檄文にて彼を指し「その老いぼれは耄碌して主命を伝え損なった。次は若く聡明な者を寄越すが良い」と罵られていた。 |
王美人 | 女性 | 霊帝の側室。劉協の生母。美人は官位名。容姿に優れ、聡明で書や算術に通じた。 何氏が皇后に立てられた年に子を懐妊した。何皇后は立場を追われることを恐れて薬で胎児を殺そうとしたが効果はなく、 子の劉協が生まれた後に何皇后によって毒殺された。 これに激怒した霊帝は何皇后を廃そうとしたが宦官に止められた。霊帝は王美人の徳を偲んで詩を作り、また儀式を行い顕彰した。 |
王門 | 男性 | 公孫瓉の武将で、後に袁紹に降った武将。 一万で公孫瓉領に攻め入ったが、田豫に裏切りを責められ軍を引いた。 |
王累 | 男性 | 劉璋の臣。城門に逆さづりになり、劉璋に劉備の起用を命を以って諌めたが容れられず、首を切って自害した。 このシーンは演義でもほぼそのままであり有名。 |
蓋勳 | 男性 | 後漢の臣。主に涼州方面で軍事・政務において活躍した。 直言を厭わぬ硬骨漢で霊帝から寵愛され、董卓からは恐れられた。 |
郭援 | 男性 | 袁尚の武将。鍾繇の甥。袁尚から河東太守に任ぜられる。 高幹と共に曹操軍の平陽攻略を図るが、汾水を渡りきらないうちに鍾繇と馬超に攻められ、龐徳に斬られた。 |
何氏 | 女性 | 何皇后とも。霊帝の皇后で、少帝弁の生母・皇太后。何進は異母兄、何苗は異父兄にあたる。 |
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何苗 | 男性 | 何進の義理の弟。車騎将軍まで昇進した。 霊帝崩御後は義兄と対立していたため、何進の遺臣・呉匡らから何進暗殺の罪を着せられ殺害された。 |
関純 | 男性 | 正史では閔純。韓馥の別駕。韓馥が袁紹を招くことに反対し、耿武とともに袁紹殺害を謀ったが文醜に斬られた。 |
管承 | 男性 | 長広郡で活動した海賊。袁譚から官位を受け、郡内で暴れまわった。 一時降伏するも、後に叛いたのか曹操からたびたび征伐を受け、最後は張郃に討たれた。 |
管寧 | 男性 | 後漢の名士。華歆、邴原とは学友。 戦乱を避け遼東に移ると、その徳の高さから公孫度の一族から代々尊重された。 後に帰郷するが招聘は全て断り生涯を終えた。 |
韓馥 | 男性 | 後漢の冀州刺史。袁紹と共に劉虞を皇帝に即けようと画策した。 公孫瓚が勢力を拡大すると、自発的に袁紹に地位を譲る。 後に袁紹に不安を覚えて張邈の下に逃亡したが、疑心暗鬼となり自害した。 |
韓筥子 | 男性 | 袁紹の武将。官渡の戦いで、眭元進、呂威璜、趙叡らと共に淳于瓊に従って兵糧基地のある烏巣(うそう)を守る。 しかし曹操の夜襲を受け、兵糧を焼き払われた。 |
魏越 | 男性 | 呂布の武将。呂布が袁紹と共に常山で張燕と戦った際に従軍。 呂布と共に僅か数十騎で1日に3・4回も張燕の本陣への突撃を行い、十日ほどで張燕軍を大破した。 |
吉本 | 男性 | 後漢の太医令。吉平とも。 218年、息子達や金禕・耿紀・韋晃とともに曹操の留守に反乱を起こした。 しかし許昌を守る王必を討てず、逆に討伐された。 |
魏攸 | 男性 | 後漢の臣。幽州牧・劉虞に従軍する。 袁紹に敗れた公孫瓚を劉虞が討伐をいさめた。 その1年後に魏攸は病死し、劉虞は公孫瓚討伐の軍を起こすが、返り討ちにあった。 |
丘力居 | 男性 | 烏丸族の大人。遼西郡を支配した幽州や青州に何度も侵入した。 劉虞が赴任すると、公孫瓉の妨害もあったが恭順の意を示した。 |
季雍 | 男性 | 袁紹の武将。公孫瓚に降伏し、袁紹軍の朱霊に攻められる。 朱霊の家族を人質とした公孫瓚の援軍を得るが、家族の命を犠牲にする覚悟を決めた朱霊の攻撃を受け、生け捕られた。 |
橋玄 | 男性 | 後漢の政治家。法に厳しく、厳格な人物で自分の息子が人質にとられても賊の討伐を優先させた。若き日の曹操を初めて評価した人物。 演義でのみ「喬公」「喬国老」とも呼ばれ、大喬・小喬らの父とされている。 |
姜叙 | 男性 | 涼州刺史・韋康の部下。馬超に仕方なく従っていたが、母の檄もあって楊阜らとともに馬超に反旗を翻した。 結果、馬超を敗走させることに成功した。 |
橋瑁 | 男性 | 橋玄の甥。後漢の東郡太守。軍を率いて反董卓同盟に参加する。 同盟決裂後、劉岱から兵糧借用の依頼を受けるが、これを断ったために殺された。 |
金禕 | 男性 | 後漢の臣。武陵太守・金旋の子。 韋晃、耿紀らと共に王必を討って献帝を奪い、曹操を討伐する計画に参加。 218年の正月に謀反を決行するも王必に逃げられ、討伐を受け戦死した。 |
金旋 | 男性 | 後漢の武陵太守。金禕の父。 漢陽太守を務めた後、一度都に戻り、中郎将に昇進して武陵太守を兼任した。 演義では出陣したところを配下の鞏志の裏切りにあい死亡した。 |
蹇硯 | 男性 | 後漢の宦官。叔父が禁令を犯して夜間外出をしたため、洛陽の北部尉をしていた曹操に捕らえられて棒で殴り殺された事がある。 霊帝に寵愛され、西園八校尉が置かれた時、その筆頭として近衛軍を統括した。 後に霊帝の意を受け、劉協擁立を進めるも何進に殺害された。 |
黄琬 | 男性 | 後漢の政治家。 その名声から董卓に召しだされ三公に任じられたが、長安遷都に反対し免官された。 李傕らが長安を落とすと牢に入れられ処刑された。 |
黄承彦 | 男性 | 後漢の名士。黄月英の父で、諸葛亮の舅。 嫁を探していた諸葛亮に、「私に醜い娘がいる。赤毛で色黒だが才能は君とお似合いだ」と勧めたという。 諸葛亮が承知すると、娘を車に乗せて送り届けた。 演義では、夷陵の戦いの追撃戦で、諸葛亮が魚腹浦に仕掛けた石兵八陣に陸遜が迷い込むと、陸遜を惜しんで救出した。 |
康僧会 | 男性 | 康居出身の訳経僧。商人の父に従い交趾に移住した。十代で両親を失ったため出家して仏典を学んだ。 呉の赤烏十年に寺を建ててもらうために建業を訪れたが、呉の人々は初めて見る僧形に驚いたという。 面会した孫権が仏教の霊験を試させたところ、康僧会は三十七日の祈祷の末に五色の光を放つ仏舍利を出現させた。 このことから孫権の支持を得て、江南地方で最初の仏教寺院、建初寺が建立された。また後年、法令苛虐な孫皓を改心させたという逸話が残る。 |
公孫恭 | 男性 | 公孫度の子。公孫康の弟。 公孫康に袁煕らを殺して首を曹操へ届けるよう進言した。 兄の死後爵位を継いで、車騎将軍に任ぜられるがのちに甥の公孫淵に位を奪われた。 |
公孫康 | 男性 | 公孫度の子。204年、楽浪郡18城の南半分である屯有県以南を裂いて帯方郡を設置し、勢力を拡大した。 後に、曹操軍に敗れて逃げてきた袁煕、袁尚兄弟を斬り、首を曹操のもとへ届けた。 その功で曹操から襄平侯・左将軍の位を授かった。 |
公孫度 | 男性 | 武威将軍。遼東太守。烏丸討伐に功績があった。 董卓と諸侯の争いで中原が荒廃すると、同郷の徐栄の推挙により遼東太守に就く。 有力豪族らを滅ぼし、権力を拡大させ公孫氏による支配を確立。遼東侯、平州牧を自称した。 中原の戦乱をよそに独立状態を保った。 |
孔伷 | 男性 | 後漢の予州刺史。軍を率いて反董卓同盟に参加する。 人物批評や清談高論は得意だったが、軍の指揮官としては無能だったという。 |
耿武 | 男性 | 韓馥配下の長史。袁紹を招こうとする主人を諌め、関純とともに袁紹の暗殺を謀ったが、顔良に斬り殺された。 |
呉巨 | 男性 | 劉表の武将。蒼梧太守。交州刺史。 劉備とは旧知の仲で、曹操の荊州侵攻時は避難先として挙げられた。 孫権が派遣した交州刺史・歩隲に、不服従を理由に斬られた。 |
呉匡 | 男性 | 後漢の軍人。呉班の父。呉懿の従父。何進の忠実な武将として活躍した。 189年、何進が宦官誅殺を計画して逆に殺害された時、同僚の袁紹らに唆されて、 義理の弟の何苗が宦官と内通して何進を殺害したと疑いを懐き、董旻らと兵を率いて朱雀門で惨殺した。 |
蔡和 | 男性 | 蔡瑁の従弟。蔡中とは兄弟。 赤壁の戦いを前に蔡瑁が曹操に処刑された後名誉挽回を期して、偽りの投降により孫権軍に潜伏。 黄蓋が棒刑を受けた様を曹操に知らせたため、曹操は黄蓋の偽りの降伏を信じた。赤壁の戦いが始まると周瑜の前に連行され、斬られた。 |
蔡氏 | 女性 | 劉表の後妻。蔡瑁の姉で、劉琮の母・劉琦の義母。 劉表が死ぬと、遺言を偽造して劉琮を後継者に仕立てた。 曹操に降伏した後に青州に向かう劉琮に同行するが、ともども于禁に討たれた。 |
蔡中 | 男性 | 蔡瑁の従弟。蔡和とは兄弟でほぼ行動を共にしたが、 赤壁の戦いが始まると、周瑜の策で甘寧を曹操の陣まで手引きしたところを斬られた。 |
士壱 | 男性 | 士燮の弟。後漢朝廷に仕えていたが、董卓が実権を握ると黄琬とともに反抗的な態度を取ったため免官。 兄の治める交州に逃れ、合浦太守を勤めた。 甥の士徽の呉への反乱では子の士匡が呉に味方していたため、命だけは許されたものの、士壱も官職を剥奪された。 後に、士壱も法を犯したという名目の下で処刑されてしまった。 |
士徽 | 男性 | 士燮の子。士祗の弟。父の死後、交趾太守を自称し呉と敵対する。後に呂岱に降伏するも斬られた。 |
士匡 | 男性 | 士壱の子。士徽は従兄弟。仲の良かった呂岱の命で、反乱を起こした士徽に降伏を勧めた。 しかし、呂岱は約束を破り、士徽一族を皆殺しにされ、自身も庶民に落とされた。 |
紫虚上人 | 男性 | 益州の錦屏山の隠者。 劉備の侵攻に悩む劉璝らが占いを請うと、暗に龐統の死と、諸葛亮の益州平定を予言した。 しかし、劉璝らは理解できず、そのまま戦死した。 |
支謙 | 男性 | 月氏出身の訳経僧。漢末に来訪し、支亮に師事して経典を学び、六か国語に精通した。 後に南方に避難すると孫権に才を評価され、博士(役職)に就き孫登の教育係となった。 支謙は色黒の長身で痩せており瞳は黄色であったため、当時の人からは「支郎は黄眼、痩躯といえども知恵袋」と称された。 呉の黄武〜建興年間に『維摩経』など四十九の経典を訳し、また『無量寿』などをもとに梵唄を創作して布教に貢献した。 |
士祗 | 男性 | 士燮の長男。士徽の反乱に参加したが、士匡の勧めで降伏した。しかし、許されず呂岱に斬られた。 |
士燮 | 男性 | 後漢末から三国時代の群雄。交州の交趾太守として権勢を揮い、海上交易で莫大な利益を上げた。 後漢が衰退し辺境への影響力を失うと、地元勢力を取り込み、実質的に独立を果たす。 中央から隔絶された土地柄、そして彼自身の人柄により、疎開した中央の人士は後を絶たなかったという。 後、荊南を呉が支配すると呉に帰順し、多くの貢物で呉の警戒心を和らげたが、 90歳で天寿を全うするまで、呉は交州の完全支配を果たせなかった。 |
士孫瑞 | 男性 | 後漢の僕射。王允の董卓暗殺計画に参加する。蔡邕を投獄した王允に助命を嘆願した。 献帝が長安から脱出した際に、李傕らの追撃に遭い死亡。 |
司馬徽 | 男性 | 学者。道号は水鏡先生。襄陽の名士であり、諸葛亮、龐統、徐庶らの学問の師。 蔡瑁の暗殺計画から逃れた劉備を自宅に泊め、臥龍・鳳雛の存在を教えた。 |
周昴 | 男性 | 袁紹の武将。周昕の弟。 袁紹の命を受け、陽城(袁術の指示で董卓と戦っていた孫堅の拠点)を攻め落とす。 袁術が孫堅と公孫越を派遣して反撃してくると、迎え撃って公孫越を討った。 後に九江太守となるが、袁術軍の孫賁(そんほん)に攻められ、陰陵で敗れた。 |
荀爽 | 男性 | 荀彧の叔父、荀勗の曽祖父。兄弟は皆優秀で荀氏の八龍と呼ばれた。 党錮の禁が解けた後、大将軍何進の従事中郎となり、更に侍中とされた。黄巾の乱では豫州刺史の王允に仕え、孔融と共に黄巾軍を撃破した。 その声望を見込んだ董卓に無理矢理召し出され、無位無官から三月余で三公にまで上った。 後に王允らと董卓暗殺の計画を練るが途中で病死した。 |
昌豨 | 男性 | 後漢末の将、群雄。 臧覇ら泰山付近で活動した軍閥の一人で、呂布が死ぬと曹操に降伏した。 しかし劉備の独立時や、冀州平定後になどに反乱を起こし、夏侯淵、張遼、于禁ら曹操軍を手こずらせた。 最終的に昌豨は于禁の旧友だったこともあり降伏したが、法を厳守する于禁は許さず、涙ながらに処断した。 |
蒋義渠 | 男性 | 袁紹の武将。官渡の戦いで袁紹が曹操に敗れた後、敗走する袁紹を黎陽に迎え入れた。 袁紹から官渡の戦いの状況を聞くと、散り散りになった敗残兵を呼び集め、袁紹軍に官渡の戦い以前の威勢を取り戻させた。 |
支婁迦讖 | 男性 | 月支出身の訳経僧。月支族の者は士姓を名乗る慣例があり、婁迦讖はローカクシェーマの意。支讖とも。支亮の師。 桓帝の時代に洛陽に訪れ、霊帝期の光和・中平年間(178〜189)に初めて大乗経典の『道行般若経』等を漢訳した。 |
秦宜禄 | 男性 | 呂布配下の将。秦朗の父。妻は杜氏。 曹操が下邳を包囲した際に袁術に救援の使者として向かうが、袁術により漢王朝の一族の娘と結婚させられた。 秦宜禄は呂布が滅亡すると曹操に降っていたが(この時、杜氏は曹操の妾となっていた)、劉備が小沛で叛旗を翻すと、 張飛が訪れ「妻を奪った男に仕えるのはバカなことだ。俺について来い」と勧誘し、秦も最初は受諾した。 しかし、後悔して張飛に帰りたいと願い出、怒った張飛に殺されてしまった。 |
眭元進 | 男性 | 袁紹の武将。官渡の戦いに参加。 淳于瓊の指揮の下で、韓莒子、呂威璜、趙叡らと共に烏巣(うそう)の兵糧基地を守っていた。 趙叡と兵糧を調達した直後、曹操軍の兵糧庫夜襲を知る。火の手が上がる中、曹操軍と戦ったが敗れ、戦死した。 |
眭固 | 男性 | 張楊の武将。元黒山賊。 191年、同じ黒山賊の于毒、白繞らと共に魏郡を攻略するが、翌年、曹操に敗退した。 199年に楊醜を討った後、旧張楊軍を率いて袁紹に味方し、射犬に駐屯。 巫女に「字が兎なのに、犬の名の土地にいるのは不吉」と言われたが、聞き入れなかった。 その後、犬城で史渙、曹仁、于禁、徐晃らと戦い、敗死した。 |
鄒氏 | 女性 | 張済の妻。張繍の叔母。夫の張済が南陽攻撃中に死亡すると、甥の張繍の下に身を寄せた。 197年、張繍が曹操に降伏した際、南陽に進駐した曹操に見初められた。 以後、曹操は鄒氏の屋敷に入り浸りになり、激怒した張繍は曹操を攻撃。曹操を守った典韋や曹昂はここで落命した。 |
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鄒靖 | 男性 | 後漢の武将。黄巾の乱に際し、幽州太守・劉焉に義勇軍を募って討伐するよう提案して採用される。 その後、応募してきた劉備、関羽、張飛らを率いて青州の黄巾賊を打ち破った。劉備らが盧植の援護に向かうと、別行動を取った。 |
石徳林 | 男性 | 別名を寒貧。若い頃、長安で学者について学んだ。 特に「方術」に興味を示し、その頃から「隠遁」の気が芽生えた。 馬超・韓遂らが叛乱を起こした際に難を避けて一時漢中に移り、曹操の漢中制圧後に長安へ帰還した。 長安帰還後、彼は意図的に人との面会を避け、官の招きにも応ぜず「阿呆」を装うようになり、乞食のような生活を生涯貫いた。 |
臧洪 | 男性 | 後漢末の将。広陵太守の張超に才能を高く評価され、郡の功曹として太守の実務を執った。 董卓の専横時には張超に決起を促し、張超と劉岱・孔伷・張邈・橋瑁の盟約に際し誓約の大任を果たす。 その後、袁紹に登用され青州刺史となる。当時の青州は盗賊の暴挙で荒れ果てていたが、在任中に盗賊を鎮圧した。 旧主張超が曹操軍に包囲されると、臧洪は援兵を袁紹に願い出たが許されず、張超は戦死。 恨みに思い袁紹に戦いを挑むが、自身も敗死した。 |
沮鹄 | 男性 | 袁紹の幕僚・沮授の子。袁紹の死後、袁尚に仕える。 袁譚が曹操に降伏した直後、冀州に攻め込んできた曹操軍を邯鄲(かんたん)で迎撃。 張遼と打ち合うが3合せずに追い立てられ、逃走するところを射殺された。 |
蘇由 | 男性 | 袁尚の武将。曹操に攻められた袁譚の救援に袁尚が向かった際、審配と共に鄴の守りについた。 しかし、曹操軍が鄴への侵攻を開始すると、曹操との内通を謀る。 しかし、これに気づいた審配と市街戦になり、城外に脱出して曹操軍に降った。 |
祖郎 | 男性 | 丹陽・宣城などにも勢力を広げていた宗教指導者。 孫策に討伐されそうになるが、先手を打って急襲し、孫策軍に全滅間近までの打撃を与える。しかし後に孫策軍の呉景・呂範・孫河らの討伐を受け敗走した。 袁術が皇帝を名乗ると、袁術は祖郎に印綬を送って孫策の背後を突かせようとしたが、孫策は孫輔・呂範と共に陵陽に進軍して祖郎を破り、生け捕りする。 孫策が祖郎の才能を惜しんで宿怨を忘れ配下に迎えたため、頭を打ち付けて孫策に謝罪した。 後に祖郎は門下賊曹に任命され、孫策の帰還の際には太史慈と共に軍の先導役を務めた。 |
段煨 | 男性 | 董卓の武将。長安遷都後華陰に駐屯し連合軍に備えた。 献帝が洛陽へ帰還する際は、帝や公卿以下に物資を援助し、陣営に迎えようとした。 しかし、もともと仲の悪かった楊定らの進言や李傕らが接近したこともあって避けられた。賈詡はこのとき段煨の元に身を寄せ、家族も託している。 198年の裴茂の李傕討伐に従い功を立てた。後に中央に召されて大鴻臚・光禄大夫となり、四十歳で卒去した。 |
种輯 | 男性 | 後漢の政治家。 董卓による長安遷都後に、种輯は黄門侍郎の荀攸らと共に董卓暗殺計画を謀ったが、事前に発覚して失敗に終わるも死は免れる。 献帝の東帰の際は側につき従った。200年、种輯は董承らと共に、曹操誅殺のクーデターに参加したが、事前に発覚し、処刑された。 |
張奐 | 男性 | 若い頃から才能を発揮して、後漢に仕えた文武両道の将。 北境では異民族の侵攻を度々防ぎ、功績を挙げ、皇甫規(威明)、段熲(紀明)とともに「涼州の三明」と讃えられた。 しかし、党錮の禁ではその忠誠心の高さを十常侍に利用され、宦官を除こうと挙兵してきた竇武・陳蕃らを何も知らぬまま撃退してしまった。 |
張闓 | 男性 | 徐州太守・陶謙の配下。元黄巾の残党。 陶謙の命で、曹操に招かれ兗州に向かう曹操の父・曹嵩を護衛する。 しかし、曹嵩一行が持つ財宝に目がくらみ、部下と謀って曹嵩らを皆殺しにすると、財宝を奪って淮南に逃げた。 激怒した曹操は徐州に侵攻するが、その間に呂布に兗州を奪われる。 |
張機 | 男性 | 後漢末期の医学家、官吏。 後漢末期の戦乱の中で傷寒病などの伝染病が流行し、家族も病死する悲惨な光景を目にして、医学を修めることを決意。 建安年間に各地を遊学し『傷寒雑病論』を執筆する。 また、長沙太守を務めたこともある。後代、「医聖」と讃えられ、華佗・董奉と並んで建安三医に数えられる。 |
趙氏貞 | 女性 | 通称は趙嫗。麗海婆王とも呼ばれた、越南(ベトナム)の反乱指導者で、兄の趙国達と共に九真の地で呉に対して反乱を起こした。 身長九尺の長身で胸は三尺もあり、鎧に収まらないために肩にかけていたという。 呉から派遣された陸胤に討伐され戦死した。 |
張松 | 男性 | 劉璋の幕僚。張粛の弟。劉璋が張魯に脅かされると、曹操に援軍を要請に向かう。 しかし、曹操からぞんざいに扱われたため、楊修を言い負かし、曹操の「孟徳新書」を暗記して驚かせる。 その態度が曹操の怒りを買い、交渉は決裂。帰途、劉備から歓迎を受け、劉璋に代えて劉備を蜀の統治者にしようと目論む。 劉備に蜀の地図を渡し、張魯を防ぐ名目で劉備を蜀に入れることに成功。 決起を促すが、兄・張粛に計画を通報され、劉璋に処刑された。 |
張譲 | 男性 | 後漢の宦官。十常侍の筆頭。養子の妻は何太后の妹にあたる。霊帝の腹心。 後に何進が十常侍排斥を企てると、先手を打って何進を宮中で暗殺した。 しかしこれが袁紹、袁術らによるクーデタを招き、宮中の宦官は殺戮された。 趙忠ら十常侍の大半が討ち取られる中、張譲は少帝と陳留王(のちの献帝)を連れて洛陽を脱出したが、 黄河の辺で叛乱軍に追いつかれ、河に身を投げて自殺した。 |
張世平 | 男性 | 仲間の蘇双と共に馬を商う豪商。義兄弟の契りを結んだばかりの劉備三兄弟に軍資金や馬を援助する。 その軍資金を元に、劉備らは義勇兵を率いて黄巾討伐に加わることになる。 |
張羨 | 男性 | 後漢末の政治家・軍人。 零陵・桂陽地域の県長・太守を務め荊南の民心を掴んでいた。強情な性格で劉表に疎まれて礼遇されず、そのことで恨みを抱いた。 198年、長沙・零陵・桂陽の三郡の兵を率いて劉表に叛き、劉表は長沙を包囲したが落とすことは出来なかった。 配下の桓階を曹操へ送るが援軍を得られず、後に病死。息子の張懌が後を継いだが長沙は陥落した。 |
張超 | 男性 | 後漢末の将・政治家。陳留太守の張邈の弟。 兄の張邈や他の諸侯と共に反董卓連合に参加し、同盟の宣誓者として、臧洪を推薦。 後、徐州の陶謙を討つため徐州遠征に赴いた曹操の留守を狙い、陳宮・張邈らと謀議し、呂布を兗州牧に推戴して謀反。 一時は、呂布らにより兗州の大半を制圧したが、曹操の反撃で窮地に追い込まれる。 雍丘に籠城し、曹操の猛攻撃に抵抗するが、雍丘は陥落して張超は自殺した。 |
趙浮 | 男性 | 韓馥配下の都督従事。 反董卓の挙兵時は韓馥の命令により、同僚の程奐と共に、数百艘の船と石弓隊一万を擁して、河陽の孟津に駐屯していた。 韓馥が袁紹に冀州を譲ると聞くと、趙浮と程奐は、急遽韓馥の下へ引き返す。 その途中、朝歌の清水口に袁紹とその軍が駐屯していたため、趙浮と程奐は、夜間に軍鼓を打ち鳴らしながらその側を通過し、袁紹を威嚇した。 趙浮らは、韓馥の下に戻ると、袁紹と戦うことを願い出たが、結局韓馥はこれを聞き入れず、袁紹に冀州を譲渡した。 |
張楊 | 男性 | 後漢の河内太守。袁紹が董卓討伐軍を起こした時、上党に駐屯しており、匈奴の於夫羅と共に袁紹に協力した。 しかし、於夫羅が反逆を企てたため瓦解し、一時期、於夫羅に捕らえられた。その後、董卓から河内太守に任ぜられる。 献帝が李傕、郭汜の支配下を脱して洛陽に移った際、食糧を援助して大司馬に任ぜられた。 呂布が曹操に包囲されると、呂布を救援して曹操の背後を攻めようとするが、部下の楊醜に殺された。 |
禰衡 | 男性 | 非常に恵まれた才能および、桁外れて傲慢不遜な性格と奇矯な言動で知られていた毒舌の三國無双。 孔融の2度に渡る推挙で曹操に召し出されたが、二度目の対面の席上、曹操が礼を欠いたことから彼の配下を痛烈に罵倒し、曹操の怒りを買う。 後に劉表の下に送られるが、そこでも配下の恨みを買った結果、讒言によって遠ざけられ、次は黄射と親しい関係になって彼の父・黄祖に拾われる。 が、同様の傲慢な態度が再発した結果、黄祖の手により処断された。 詩に『鸚鵡賦』がある。 |
鄭泰 | 男性 | 後漢の将。鄭渾の兄。何進の招聘を受け、その側近となり活動した。 いち早く董卓の危険性を見抜き、何進が董卓と結ぶことに反対したが、進言が容れられることはなかった。 何進暗殺後、董卓が政権を握ると、表面上は忠実な振りをしつつ袁紹に官位を授けさせたり、荀攸と暗殺計画を練るなど董卓の打倒を謀った。 しかし、計画は失敗し、袁術の元に逃れるとそこで病死した。 |
田疇 | 男性 | 後漢の議郎。劉虞に仕え、早くから公孫瓚を警戒していた。 献帝への使者として長安に赴くが、劉虞が公孫瓚に殺されたため隠棲。 袁紹や袁尚の招きには応じず、北方に籠もって善政を敷いた。 郷里を荒らした烏丸を恨んでいたため、曹操の烏丸討伐に協力したが、その後は曹操の任用も固辞し親しかった夏侯惇の説得も拒んだ。 |
杜氏 | 女性 | 秦宜禄の妻。秦朗、金郷公主の母。 下邳陥落の際、夫の秦宜禄が他の女性と結婚していた為、関羽は曹操に杜氏を娶りたいと願い出た。 曹操は了承したが、実際に見たところ気に入った為、そのまま側室にしてしまった。 連れ子の秦朗は曹操に養育され、後に魏の権臣となった。 |
董氏 | 女性 | 馬超の妾。弟に董种。子に馬秋。張魯のところに預けられていたが、張魯の降伏後は閻圃に与えられた。 また、同じく預けられていた子の馬秋は張魯に殺された。 |
董白 | 女性 | 董卓の孫娘。長安遷都の際に、未成年だったにもかかわらず渭陽君に封ぜられ領地も与えられた。 董卓暗殺時は他の親族と同じく郿塢にいたと考えられ、王允の命で皇甫嵩が郿塢を攻めた際に死亡したと推察される。 『真・三國無双5Empires』においてNPC登場している。 |
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董奉 | 男性 | 三国時代の医者。若い時に医学を学び、南方で活動した。 患者から治療費を受け取らず、快方した患者に杏の苗を植樹することだけを求め、数年後には数万株の杏が満開になったという。 晩年は豫章に隠棲し、民に医療を施し続けた。病院や医者のことを「杏林」と呼ぶのは彼の事績に由来する。 仙人としての逸話も多く残り、虎を使役したり、病死した士燮を甦らせたり、何百年も生きたり、といった伝説がある。 |
南華老仙 | 男性 | 荘子と同一視される仙人。漢王朝の腐敗に悩む張角に『太平要術の書』を授け、 「これを用いてあまねく世の人を救うがよい。だが、悪しき欲のもとに使えば必ずや天罰の報いが訪れる」と言って去ったという。 |
裴茂 | 男性 | 後漢の官僚、武将。裴潜の父。裴秀の祖父。 献帝に侍御史として仕え、建安二年(一九七)十月には、段煨や関中の諸将を統率し、李傕を討伐して、その三族を滅ぼした。 子の裴潜のことはあまり評価していなかった。 |
馬休 | 男性 | 馬騰の次男。[[馬超]の弟。馬鉄の兄。 孫権討伐の勅命を受けた馬騰に従い許昌に入った。 しかし、馬騰と黄奎による曹操討伐の密議が発覚し、曹操軍に包囲される。馬騰と共に勇戦するが、捕らえられ処刑された。 |
馬鉄 | 男性 | 馬騰の三男。馬超、馬休の弟。 馬休とほぼ同じく、孫権討伐の命を受けて許昌に呼び寄せられた馬騰に同行。 馬騰と黄奎による曹操討伐の密議が発覚して曹操軍に攻められ、乱戦の中、戦死した。 |
樊氏 | 女性 | 桂陽太守・趙範の兄嫁。趙範は趙雲に兄嫁・樊氏を妻にするよう勧めるが、趙雲は劉備軍の風評に傷が付くことを危惧し断固として拒んだ。 京劇『龍鳳呈祥』や無双ブラストでは「樊玉鳳」として登場。 |
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潘鳳 | 男性 | 韓馥の武将。大斧の使い手。反董卓連合に参加した韓馥に従軍する。 汜水関の戦いで、袁術配下の兪渉が華雄に討ち取られると、韓馥の命を受けて華雄に挑むが、あっという間に返り討ちにされた。 |
卑弥呼 | 女性 | 倭(当時の日本)に存在した邪馬台国の女王。内乱が続いていた国であったが、卑弥呼が女王になると乱は治まった。 鬼道を用いて国を治めたと言われ、魏に使者を送って親魏倭王の称号と金印を授かっている。 死後、国は再び乱れるが、卑弥呼の一族の娘で13歳の壱与(台与とも)が女王になると、国は再び平和になったという。 『無双OROCHI 魔王再臨』以降における同シリーズのキャラとして登場しているが、本作にはエディット武将用衣装として『邪馬台一式』が登場。 |
馮氏 | 女性 | 馮方の娘。国中第一と評判の美女で、袁術に寵愛された妾。 他の妾が「将軍はみさおの固い女性が好みですから、いつも物思いにふけって涙を流されると良いですよ」とわざと間違った忠告をしたが、 馮氏はもっともだと思い実行したところ、一層袁術からの寵愛を受けた。そのため他の妾たちは共謀して馮氏を自殺に見せかけて絞殺した。 袁術は、梁に掛けられた遺体を見て、想い人と一緒になれないことを悔やんで自害したと思い、憐れんで手厚く葬った。 |
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方悦 | 男性 | 河内太守・王匡の将。反董卓連合に参加した王匡の配下として従軍した。 虎牢関で呂布軍と激突。呂布が単騎で乗り込んでくると槍を以って迎え撃つが 5合もせずに討ち取られ、余勢を駆った呂布の前に王匡軍は大敗した。 |
穆順 | 男性 | 張楊の武将。反董卓連合軍に張楊の配下として参加。 虎牢関の戦いで、呂布の勇猛ぶりに連合軍の諸将が尻込みする中、槍を片手に単騎で迎え撃つが、呂布の方天画戟にひと突きにされた。 |
孟節 | 男性 | 演義にのみ登場する孟獲の兄。竹の冠に草の履、白い袍に黒い帯を締めた碧眼黄髪の人物として描かれる。 孟獲らが悪行をおこない朝廷に服さないことを諌めたが、聞き入れられなかったため隠棲する。 万安渓という谷で「万安隠者」と名乗り、長年にわたり暮らしていた。 南中平定に赴いた諸葛亮と出会い、毒泉にやられた傷病兵の治癒に協力した。 |
楊氏 | 女性 | 馬超の妻。渭水の戦いで曹操に敗れた馬超が冀城を占領した際、夫に従い入城した。 しかし、馬超追討を狙う楊阜、趙昂らが挙兵し、馬超が鎮圧に向かっている間、梁寛と趙衢に捕らえられる。 敗北した馬超が帰城すると、馬超の目の前で三人の子と共に殺された。 |
楊醜 | 男性 | 張楊の武将。張楊が呂布に加勢しようとした時、張楊を殺し、首を曹操に献じる。 その後、部下の眭固に裏切られ、殺された。 |
李孚 | 男性 | 馮紞の祖父?袁尚の幕僚。元の姓は馮。 審配の守る鄴が曹操軍に包囲された際、援軍を知らせる使者として曹操軍に成りすまして包囲を突破、無事に入城した。 また、食糧節約の為、子供や老人を降伏させ、城から出す策を審配に献じた。 後の袁尚追討ではぐれたため、止む無く袁譚に仕え、その後、降伏し曹操に仕えた。魏では司隷校尉や平陽太守を勤めた。 |
李豊 | 男性 | 袁術の武将。袁術が起こした呂布討伐戦に督戦官として参加。 呂布と一騎討ちになり、槍で利き腕を突かれて逃走した。 その直後、曹操に攻め込まれ、楽就、梁綱、陳紀と共に寿春を守る。しかし、力及ばず、曹操軍に捕らえられ、斬られた。 |
劉淵 | 男性 | 晋王朝成立後の漢/後の前趙の創建者。劉豹の子。母は呼延氏。約190�の巨漢で、腕力に優れ弓術を得意とした。 幼少の時に漢人の文化を学び、魏末に人質として魏の洛陽に入った。西晋の初年に父・劉豹が高齢で没すると、跡を継ぐ。 八王の乱が起こり晋朝が乱れると、従祖父や腹心から秘かに大単于に推され、司馬穎に匈奴の援軍を率いると言って帰郷、大単于に就任する。 10月、晋から自立。単于が漢王朝とかつて婚姻関係にあったことから国号を「漢」と定め、漢王を称した。 配下の石勒、王弥や従子の劉曜など従えて、勢力を拡大。308年10月に皇帝を称するに至ったが、洛陽攻略の途上で病没した。 |
劉和 | 男性 | 後漢の幽州牧・劉虞の子。侍中として献帝に仕える。 長安遷都後、洛陽に戻ろうとした献帝から、劉虞に出兵を促すよう命じられた。 幽州に向かう途中、袁術に劉虞から送られた軍勢を奪われ自身も拘留された。 後に袁術の下から脱するが、父・劉虞は犬猿の仲だった公孫瓚によって殺害されていた。 そこで袁紹の精兵や劉虞の遺臣と共に、亡父の仇である公孫瓚を攻め滅ぼした。 |
柳毅 | 男性 | 公孫度の官僚、武将。公孫度から信任を受けた。 公孫度は諸将に勃海を渡らせ青州の東莱郡の諸県を攻略させたが、このときの将の中に柳毅がいたと考えられる。 たびたび青州で暴れまわったが、袁譚が敗れた頃、海岸方面に派遣された張遼によって撃破された。 |
劉協 | 男性 | 後漢の第14代皇帝。献帝。霊帝の次子。母は王氏。 霊帝が崩御し少帝が即位すると、陳留王となる。間もなく董卓に擁立されて即位し、長安への遷都を強行された。 董卓の死後は李傕に支配されるが、長安を脱して曹操の保護を受け、許昌に移る。以後は政権を曹操に掌握される。 配下がたびたび曹操の討伐を図ろうとした動きもあったがいずれも失敗。 220年、魏王・曹丕に禅譲を迫られ退位。山陽公に封ぜられ厚遇を受けたものの、後漢はその時を以って滅亡した。 |
劉虞 | 男性 | 後漢の幽州牧。皇族の中で特に徳望が篤かった。 幽州牧として赴任後、融和政策により東方異民族を統治し、民心を安定させる。 董卓が献帝を擁立した後、袁紹と韓馥から皇帝に担ぎ上げられそうになるが、漢室への恭順を貫き、拒否した。 異民族統治策での意見の違いから、次第に公孫瓚との仲が悪化。193年、公孫瓚と戦って敗れ、刑死した。 |
劉宏 | 男性 | 霊帝。後漢の第十二代皇帝。 暗愚な人物とされ、政治の実権は十常侍など宦官らに掌握された。 一方で学問を重視して、熹平石経を作らせたり、皇帝直属の常備軍の「西園八校尉」を設立したりといった事績もある。 黄巾の乱平定後、騒乱の最中に崩御した。 |
劉氏 | 女性 | 袁紹の側室。袁尚の母。官渡の戦いの後、袁紹に袁尚を後継者とするよう勧める。 202年、袁紹が死ぬと、審配、逢紀と共謀して袁尚が後継者になるように手配。 その裏で密かに袁紹の5人の妻を皆殺しにした。 204年、曹操が袁尚を破って鄴を平定した際、甄姫と共に捕らわれ、曹丕の保護を受けた。 |
劉琮 | 男性 | 荊州刺史・劉表の次男で、劉琦の異母弟。 蔡氏を妻としたことから蔡瑁らの一族の後押しもあり、長男を差し置いて後継者となる。 しかし、後継の座を奪われた劉琦や劉備の攻撃を恐れ、傅巽らの策を入れて曹操に降伏。 曹操が荊州に入った後、青州刺史に任じられる。 |
劉磐 | 男性 | 劉表の甥。劉表の命で、黄忠と共に長沙の攸県を守る。 勇猛でたびたび艾県、西安県などの諸県に攻め込んだが、孫策が太史慈を赴任させると鳴りを潜めた。 |
劉弁 | 男性 | 後漢の第十三代皇帝。霊帝の息子。生母は何太后。 霊帝が崩御すると大将軍の何進により擁立された。 しかし、何進が宦官により暗殺され、さらに宦官も袁紹によって皆殺しにされたため、 その時期に洛陽に入ってきた董卓によって、異母弟の劉協(献帝)が擁立され廃位となり、弘農王に封じられた。 反董卓連合が起こると、連合軍に擁立されることを恐れた董卓に命じられた李儒によって、長安遷都前に毒殺された。 |
呂伯奢 | 男性 | 演義に登場する富豪。 董卓から指名手配され洛陽から逃亡中の曹操と、その同行者の陳宮を家に匿う。 しかし、留守中に疑心暗鬼に陥った曹操によって家人は皆殺しにされる。 また逃亡の障害となるため、何も知らず帰ってきた呂伯奢も殺害された。 |
盧氏 | 女性 | 張衡の妻。張魯の母。巫術に通じた女性で、年を経ても若々しい姿のままだった。 いつも家を行き来するなど劉焉に気に入られたため、息子の張魯が官位を授かり漢中に派遣された。 劉焉は長安からの道を塞がせたため、張魯は漢中に五斗米道の拠点を得ることができた。 劉焉が没すると子の劉璋が後を継いだが、張魯は劉璋に従うことを承知しなくなった。そのため、益州にいた盧氏とその親族は劉璋に殺害された。 |