魏越 | 男性 | 呂布の武将。呂布が袁紹と共に常山で張燕と戦った際に従軍。 呂布と共に僅か数十騎で1日に3・4回も張燕の本陣への突撃を行い、十日ほどで張燕軍を大破した。 |
吉本 | 男性 | 後漢の太医令。吉平とも。 218年、息子達や金禕・耿紀・韋晃とともに曹操の留守に反乱を起こした。 しかし許昌を守る王必を討てず、逆に討伐された。 |
魏攸 | 男性 | 後漢の臣。幽州牧・劉虞に従軍する。 袁紹に敗れた公孫瓚を劉虞が討伐をいさめた。 その1年後に魏攸は病死し、劉虞は公孫瓚討伐の軍を起こすが、返り討ちにあった。 |
丘力居 | 男性 | 烏丸族の大人。遼西郡を支配した幽州や青州に何度も侵入した。 劉虞が赴任すると、公孫瓉の妨害もあったが恭順の意を示した。 |
季雍 | 男性 | 袁紹の武将。公孫瓚に降伏し、袁紹軍の朱霊に攻められる。 朱霊の家族を人質とした公孫瓚の援軍を得るが、家族の命を犠牲にする覚悟を決めた朱霊の攻撃を受け、生け捕られた。 |
橋玄 | 男性 | 後漢の政治家。法に厳しく、厳格な人物で自分の息子が人質にとられても賊の討伐を優先させた。若き日の曹操を初めて評価した人物。 演義でのみ「喬公」「喬国老」とも呼ばれ、大喬・小喬らの父と同一人物とされている。 |
姜叙 | 男性 | 涼州刺史・韋康の部下。馬超に仕方なく従っていたが、母の檄もあって楊阜らとともに馬超に反旗を翻した。 結果、馬超を敗走させることに成功した。 |
橋瑁 | 男性 | 橋玄の甥。後漢の東郡太守。軍を率いて反董卓同盟に参加する。 同盟決裂後、劉岱から兵糧借用の依頼を受けるが、これを断ったために殺された。 正史では何進と十常侍との対立の折に召集され、軍を進めているほか、董卓討伐の檄文を発している(演義では曹操が檄文を発したことになっている) |
金禕 | 男性 | 後漢の臣。武陵太守・金旋の子。 韋晃、耿紀らと共に王必を討って献帝を奪い、曹操を討伐する計画に参加。 218年の正月に謀反を決行するも王必に逃げられ、討伐を受け戦死した。 |
金旋 | 男性 | 後漢の武陵太守。金禕の父。 漢陽太守を務めた後、一度都に戻り、中郎将に昇進して武陵太守を兼任した。 演義では出陣したところを配下の鞏志の裏切りにあい死亡した。 |
蹇硯 | 男性 | 後漢の宦官。叔父が禁令を犯して夜間外出をしたため、洛陽の北部尉をしていた曹操に捕らえられて棒で殴り殺された事がある。 霊帝に寵愛され、西園八校尉が置かれた時、その筆頭として近衛軍を統括した。 後に霊帝の意を受け、劉協擁立を進めるも何進に殺害された。 |
黄琬 | 男性 | 後漢の政治家。 その名声から董卓に召しだされ三公に任じられたが、長安遷都に反対し免官された。 李傕らが長安を落とすと牢に入れられ処刑された。 |
黄承彦 | 男性 | 後漢の名士。黄月英の父で、諸葛亮の舅。 嫁を探していた諸葛亮に、「私に醜い娘がいる。赤毛で色黒だが才能は君とお似合いだ」と勧めたという。 諸葛亮が承知すると、娘を車に乗せて送り届けた。 演義では、夷陵の戦いの追撃戦で、諸葛亮が魚腹浦に仕掛けた石兵八陣に陸遜が迷い込むと、陸遜を惜しんで救出した。 |
康僧会 | 男性 | 康居出身の訳経僧。商人の父に従い交趾に移住した。十代で両親を失ったため出家して仏典を学んだ。 呉の赤烏十年に寺を建ててもらうために建業を訪れたが、呉の人々は初めて見る僧形に驚いたという。 面会した孫権が仏教の霊験を試させたところ、康僧会は三十七日の祈祷の末に五色の光を放つ仏舍利を出現させた。 このことから孫権の支持を得て、江南地方で最初の仏教寺院、建初寺が建立された。また後年、法令苛虐な孫皓を改心させたという逸話が残る。 |
公孫恭 | 男性 | 公孫度の子。公孫康の弟。 公孫康に袁煕らを殺して首を曹操へ届けるよう進言した。 兄の死後爵位を継いで、車騎将軍に任ぜられるが、のちに甥の公孫淵に位を奪われた。 |
公孫康 | 男性 | 公孫度の子。204年、楽浪郡18城の南半分である屯有県以南を裂いて帯方郡を設置し、勢力を拡大した。 後に、曹操軍に敗れて逃げてきた袁煕、袁尚兄弟を斬り、首を曹操のもとへ届けた。 その功で曹操から襄平侯・左将軍の位を授かった。 |
公孫度 | 男性 | 武威将軍。遼東太守。烏丸討伐に功績があった。 董卓と諸侯の争いで中原が荒廃すると、同郷の徐栄の推挙により遼東太守に就く。 そこで有力豪族らを滅ぼし、権力を拡大させ公孫氏による支配を確立。 遼東侯、平州牧を自称し、以降は中原の戦乱をよそに独立状態を保った。 |
孔伷 | 男性 | 後漢の予州刺史。軍を率いて反董卓同盟に参加する。 人物批評や清談高論は得意だったが、軍の指揮官としては無能だったという。 |
耿武 | 男性 | 韓馥配下の長史。袁紹を招こうとする主人を諌め、関純とともに袁紹の暗殺を謀ったが、顔良に斬り殺された。 |
呉巨 | 男性 | 劉表の武将。蒼梧太守。交州刺史。 劉備とは旧知の仲で、曹操の荊州侵攻時は避難先として挙げられた。 孫権が派遣した交州刺史・歩隲に、不服従を理由に斬られた。 |
呉匡 | 男性 | 後漢の軍人。呉班の父。呉懿の従父。何進の忠実な武将として活躍した。 189年、何進が宦官誅殺を計画して逆に殺害された時、同僚の袁紹らに唆されて、 義理の弟の何苗が宦官と内通して何進を殺害したと疑いを懐き、董旻らと兵を率いて朱雀門で惨殺した。 |
蔡和 | 男性 | 蔡瑁の従弟。蔡中とは兄弟。 赤壁の戦いを前に蔡瑁が曹操に処刑された後名誉挽回を期して、偽りの投降により孫権軍に潜伏。 黄蓋が棒刑を受けた様を曹操に知らせたため、曹操は黄蓋の偽りの降伏を信じた。赤壁の戦いが始まると周瑜の前に連行され、斬られた。 |
蔡氏 | 女性 | 劉表の後妻。蔡瑁の姉で、劉琮の母・劉琦の義母。 劉表が死ぬと、遺言を偽造して劉琮を後継者に仕立てた。 曹操に降伏した後に青州に向かう劉琮に同行するが、ともども于禁に討たれた。 |
蔡中 | 男性 | 蔡瑁の従弟。蔡和とは兄弟でほぼ行動を共にしたが、 赤壁の戦いが始まると、周瑜の策で甘寧を曹操の陣まで手引きしたところを斬られた。 |
士壱 | 男性 | 士燮の弟。後漢朝廷に仕えていたが、董卓が実権を握ると黄琬とともに反抗的な態度を取ったため免官。 兄の治める交州に逃れ、合浦太守を勤めた。 甥の士徽の呉への反乱では子の士匡が呉に味方していたため、命だけは許されたものの、士壱も官職を剥奪された。 後に、士壱も法を犯したという名目の下で処刑されてしまった。 |
士徽 | 男性 | 士燮の子。士祗の弟。父の死後、交趾太守を自称し呉と敵対する。後に呂岱に降伏するも斬られた。 |
士匡 | 男性 | 士壱の子。士徽は従兄弟。仲の良かった呂岱の命で、反乱を起こした士徽に降伏を勧めた。 しかし、呂岱は約束を破り、士徽一族を皆殺しにされ、自身も庶民に落とされた。 |
紫虚上人 | 男性 | 益州の錦屏山の隠者。 劉備の侵攻に悩む劉璝らが占いを請うと、暗に龐統の死と、諸葛亮の益州平定を予言した。 しかし、劉璝らは理解できず、そのまま戦死した。 |
支謙 | 男性 | 月氏出身の訳経僧。漢末に来訪し、支亮に師事して経典を学び、六か国語に精通した。 後に南方に避難すると孫権に才を評価され、博士(役職)に就き孫登の教育係となった。 支謙は色黒の長身で痩せており瞳は黄色であったため、当時の人からは「支郎は黄眼、痩躯といえども知恵袋」と称された。 呉の黄武〜建興年間に『維摩経』など四十九の経典を訳し、また『無量寿』などをもとに梵唄を創作して布教に貢献した。 |
士祗 | 男性 | 士燮の長男。士徽の反乱に参加したが、士匡の勧めで降伏した。しかし、許されず呂岱に斬られた。 |
士燮 | 男性 | 後漢末から三国時代の群雄。交州の交趾太守として権勢を揮い、海上交易で莫大な利益を上げた。 後漢が衰退し辺境への影響力を失うと、地元勢力を取り込み、実質的に独立を果たす。 中央から隔絶された土地柄、そして彼自身の人柄により、疎開した中央の人士は後を絶たなかったという。 後、荊南を呉が支配すると呉に帰順し、多くの貢物で呉の警戒心を和らげたが、 90歳で天寿を全うするまで、呉は交州の完全支配を果たせなかった。 |
士孫瑞 | 男性 | 後漢の僕射。王允の董卓暗殺計画に参加する。蔡邕を投獄した王允に助命を嘆願した。 献帝が長安から脱出した際に、李傕らの追撃に遭い死亡。 |