分類性能
メーカー日産総排気量3,495ccPP657
国籍日本最高出力650PS/6,800rpm
(800PS/7,000rpm)
全長4,720mm
カテゴリレーシングカー/FIA-GT1最大トルク72.0kgfm/4,400rpm
(92.2kgfm/4,500rpm)
全幅2,000mm
モデル簡易駆動形式MR全高1,090mm
ギャラリー非対応吸気形式TB車両重量1,000kg/49:51
内装簡易PWR1.25kg/PSTM6速
入手方法カスタム/チューン制限
ディーラーCr.170,000,000カスタムペイント:不可、ホイール交換:不可、エアロ装着:不可
プレゼント---チューンターボキットのみ可

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  • ル・マン24時間レース参戦のため、日産とトム・ウォーキンショー・レーシング(TWR)によって共同開発されたレーシングカー。
    名称は、かつて1960年代の日本グランプリで活躍した日産・R380〜R383の系列として名づけられた。
  • 1996年、日産が次期ル・マン24時間レース参戦の為、トム・ウォーキンショー・レーシング(TWR)と共同開発したレーシングカー。
    ベース車はTWRが以前にジャガーと共同開発したXJR-15で、車名は1960年代に日本国内で活躍した日産・R380〜R383が由来である。

    当初はLMP1クラスでの参戦予定をGT1クラスへ変更した為、規定によりロードカーが1台製造され、両車とも日産に保管されている。
  • シャシーはTWRがかつてジャガーと組んでいた頃に制作したXJR-15(GT2収録)をベースに作られている。
    最も、XJR-15自身所詮"F1の前座レースが出来る程度の車"であり、わずか外見に印象を残すのみで外見、中身ともに徹底的に改良されている。

    その中身はほぼプロトタイプレーシングカーであり、既に末期症状となっていた当時のFIA-GT1カテゴリーを体現する車両と言えよう。

    デザイナー曰く「フロントはZ、リアはGT-Rを意識した」らしく、現にヘッドライトはZ32より流用されていた。

    ちなみにテールランプは何の脈路もないクーペ・フィアットからの流用品である。
  • 主な設計はジャガー・XJR-9を設計したトニー・サウスゲート、デザイナーは後にジャガーに移籍するイアン・カラムが担当した。
    名ばかりの「GTカー」と化していた末期のGT1クラスらしくXJR-15の名残は外見のみで、中身はプロトタイプレーシングカーである。

    外装は「フロントはZ、リアはGT-Rを意識した」との事で、ヘッドライトはZ32の流用、リアはクーペ・フィアット用を採用している。
  • 搭載エンジンのVRH35Lは、グループC最強と謳われたR92CPに搭載されていた3.5L・V8ツインターボのVRH35Zの改良型。
    型番こそ違うが新規開発ではなく、VRH35Zにリストリクターを装着しブースト圧を下げただけで、エンジン自体は以前と変わらない。

    VRH35ZはグループCで実績を残していたエンジンではあったが、各部への最適化が行われておらず、性能はかなり低くなってしまっていた。
  • 搭載エンジンの「VRH35L」は、グループC最強と謳われたR92CPに搭載されていた3.5L・V8ツインターボのVRH35Zの小改良型である。
    VRH35ZはグループCで実績を残していたエンジンであったが、各部への最適化が行われておらず、性能はかなり低くなってしまった。
    わざわざ昔のエンジンを引っ張ってきたあたり、当時の日産財政悪化が深刻な事態になっていた事を証明するエピソードとも言える。
  • 当初はLMP1クラスでの参戦が計画されていたが、GT1規定へと変更されたため、規定によりロードカーが1台製造された。
    ちなみに1998年式のものは新規作成ではなく、1997年のものの改造版である。

    現在ロードカーはレースカーと共に、日産座間記念車庫に保管されている。
  • ル・マンでは1997年に初参戦。予選ではポールポジションを獲得したものの、ギアボックスの問題により本戦においては低迷した。
    1998年はギアボックス改善・ロングテールや電子制御を導入し、星野一義・鈴木亜久里・影山正彦組の乗るマシンが総合3位を記録。

    当時の日本人トリオ歴代最高位を獲得し、前年度マシンの改修車を含む出走した4台全車が10位以内(3-5-6-10位)で完走も果たした。
  • ル・マン24時間には1997年に初参戦。予備予選ではポールポジションを獲得する順調なスタートを切る。
    しかし、レギュレーション解釈の違いにより改修を余儀なくされ、結果的にギアボックストラブルを誘発し、結果は残せなかった。

    この時の対応に日産陣営とTWR陣営で意志の疎通がうまく行かず、トラブル多発に至ったと言われる。この問題は翌年には改善されていた。
  • 本車はスタンダードモデルの中でも、極めてクオリティが高い車両の内の1台である。
  • 翌1998年の参戦時には、ギアボックスやロングテール化などの空力改善、TCSやABSなど各種電子制御を導入する等し、性能を向上。
    改良が功を奏し、優勝候補達が多く脱落する荒れた展開の中、星野一義・鈴木亜久里・影山正彦組の乗るマシンが総合3位という日本人トリオ当時歴代最高位を獲得し、前年度のマシンをアップデートさせた車両を含む出走した4台全車が10位以内(3-5-6-10位)で完走する健闘をみせた。
  • 夜にハイビームとロービームを切り替えると光量が変化する。この特徴はスタンダードモデルとしては本車とロードカーのみと思われる。
  • 翌1999年には、GT1規定の消滅に伴い、オープンプロトであるR391(未収録)での参戦に切り替えて2台体制で参戦した。
    しかしクラッシュやトラブルによりリタイヤで終わり、それ以降日産によるル・マンの活動はLMP2クラスに出場するマシンへのエンジン供給を除けば遠ざかっていたが、2015年にGT-R LM ニスモがWECに参戦することとなり、トラブル等の影響で第3戦 ル・マン24時間からの出場となったが、これにより本格的なワークス活動としては16年ぶりのルマン参戦となった。

+  余談



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