分類性能
メーカーランチアPP544全長3,990mm
国籍イタリア総排気量1,759cc全幅1,880mm
カテゴリラリー/WRC最高出力456PS/8,000rpm
(455PS/8,000rpm)
全高1,360mm
モデル簡易最大トルク46,0kgfm/5,000rpm
(45,9kgfm/5,000rpm)
車両重量/配分890kg/43:57
ギャラリー非対応駆動形式
吸気形式
4WD(40:60)/TBトランスミッション5速
メーカーランチア総排気量1,759ccPP544
国籍イタリア最高出力456PS/8,000rpm全長3,990mm
カテゴリラリーカー/WRC-グループB最大トルク46.0kgfm/5,000rpm全幅1,880mm
モデル簡易駆動形式4WD(40:60)全高1,360mm
ギャラリー非対応吸気形式TB車両重量890kg/43:57
内装簡易PWR1.95kg/PSTM5速
入手方法カスタム/チューン制限
ディーラーCr.145,000,000カスタムペイント:不可、ホイール交換:不可、エアロ装着:不可
プレゼント---チューン---
ディーラーCr.145,000,000カスタムペイント:不可、ホイール交換:不可、エアロ装着:不可
プレゼント---チューンエンジンチューン・ターボキットのみ可

  • グループB移行期である82年、ランチアはグループB規格のラリーカーである「ラリー037(未収録)」をいち早く投入する。
    83年に本格活動し、アウディとランチアはそれぞれ5勝づつ挙げ、2ポイント差でランチアがマニュファクチャラーズタイトルを獲得した。

    しかしドライバーズはアウディが獲得し、マニュファクチャラーズも僅差での獲得だった事から、ランチアは「2WDでは勝てない」と確信する。

    そしてその確信は的中した。84年、熟成が進んだアウディにランチアはまるで歯が立たず、勝利はラウンド5のツール・ド・コルスのみであった。

    しかもこれは単にクワトロがターマックを苦手としていただけであり、実力で勝ち取った勝利とは到底言えるものではなかった。

    急いでMRのラリーカーを投入してしまった事が完全に裏目に出てしまったのである。
  • 時は流れ、85年の最終ラウンドであるRACラリー。ランチアは必勝を掛けて、「公道を走るF1」の異名を持つこのデルタS4を投入した。
    形状や素材は勿論、メカニズムやシャシーに至るまでベース車両との共通点を一切見出せない、完全なプロトタイプレーシングカーであった。

    直列4気筒エンジンをリアミッドシップに縦置きし、低・中回転でのトルクを確保するためターボチャージャーに加え、低回転域ではスーパーチャージャーを使うツインチャージャーを採用。

    デビュー時の最高出力は456馬力、末期には何と600馬力を超えていた。

    極めて危険な車体構造でもあり、ボディはケブラー樹脂とプラスチックで構成され、車重は僅か890kg、ホイールはマグネシウム製、燃料タンクは何と座席の真下、しかもアルミニウム製であった。勝つためだけの装備を満載し、それ以外を全て捨て去ったのである。

    このマシンに対抗できたのは怪物揃いのグループB内でも205T16E2のみであり、86年のWRCはプジョーとランチアの一騎打ちと化した。
  • そしてこの年、グループBの危険性が最大にして最悪の形で露呈した。
    ラウンド5、ツール・ド・コルスでヘンリ・トイヴォネンの駆るデルタS4がコースオフし、崖から転落した直後に爆発炎上した。

    マグネシウムホイール・ケブラー樹脂・プラスチックが用いられた車両は、フレームとサスペンションを残して瞬く間に全焼。

    トイヴォネンはコ・ドライバーのセルジオ・クレストと共に焼死、発見時には白骨化していたとも骨すら残らなかったとも言われている。

    ラリー史上は勿論、モータースポーツ史上でも類を見ないこの大惨事は、グループBの危険性を知らしめる決定的なものとなった。

    FISAは緊急会議を行い、グループBによるWRCを86年を以て中止し、87年以降は下位カテゴリーのグループAにて選手権を行うと発表。

    こうしてグループBは僅か5年で幕を閉じた。
  • エースのトイヴォネンを失ったランチアは失速し、僅か4勝しか挙げられず、6勝を挙げたプジョーにマニュファクチャラーズを奪われた。
    ドライバーズは最後まで縺れ込んだが、それも一悶着あった末にプジョーが獲得し、デルタS4はランチアの中で唯一無冠のラリーカーとなった。
  • 落命したトイヴォネンは、デルタS4についてインタビューを受けた際に、「コースに留めておくだけで精一杯、神経がおかしくなりそうだ」と答えた。
    命を落とす事になったツール・ド・コルスをグループBカーで走行する事について「この危険なコースにこの車はあまりにも速すぎる」とも答えている。

    ランチア元監督のチェザーレ・フィオリオは、「S4の性能を100%発揮できたのはヘンリだけだった。ビアシオンやアレンでさえ性能の60%〜80%しか出せなかった」とコメントしている。

    しかしそのトイヴォネンが事故死してしまい、S4を乗りこなせたドライバーは結果的に誰一人としていなかった事になる。
  • 「誰にも使いこなす事ができない」という、奇しくもグループBを象徴する1台となったデルタS4は、こうして表舞台から姿を消した。
    その後、アウディやプジョーと同じようにパイクスピークに参戦したが、目立った戦績は残せなかった。

    圧倒的、過剰とも言えるパフォーマンスを持ちながら何1つ結果を残せなかったこのラリーカーは、ファンからは「無冠の帝王」と呼ばれている。



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