分類 | 性能 |
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メーカー/国籍 | フェラーリ/イタリア | 総排気量 | 4698cc | 全長 | 4,480mm |
カテゴリー1 | N500 | 最高出力 | 519PS/8,500rpm | 全幅 | 1,986mm |
カテゴリー2 | ノーマルカー/スーパーカー | 最大トルク | 48.0kgfm/6,500rpm | 全高 | 1,120mm |
内装 | あり | 駆動形式 | MR | 車両重量 | 1,230kg |
年式 | 1995 | 吸気形式 | NA | TM | 6速 |
入手方法 | セッティング他 |
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ディーラー | Cr.190,000,000 | 制限 | ダート走行不可 |
その他 | --- | 特記 | --- |
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カラーバリエーション |
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☆Rosso Corsa | Rosso Barchetta | Giallo Modena | Nero Daytona | Argento Nurburgring |
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- 「公道を走るF1」というコンセプトを元に開発され、F40の後継のフェラーリの新たなフラッグシップとして1995年にデビューした。本来のフェラーリの周年記念車両としては2年ほど早いリリースだったのだが、さまざまな事情がある。
- シャシーはフルカーボンで制作され、エンジンも剛性材に用いるストレスマウント設計により世代最高峰のボディ剛性を誇り、コーナリング性能が重視された設計であった。
- 始めからカブリオレ(オープンカー)として使用してもボディ剛性が不足しないよう設計されていて、当時「世界で最も速いオープンカー」だったと言えなくはない。ただし、デタッチャブルトップは一般人が簡単に取り外し/取り付けができない複雑な装着法で、専門の整備業者に持ち込み修理同然の依頼が必要だった。
- 搭載されたエンジンは、当時のフェラーリF1(F92A)に用いられた3.5L 5バルブ 65度V12の鎮鉄ブロックを元に限界レベルまで排気量を拡大した4.7L V12エンジンである。
「公道を走るF1」というコンセプトの他にフェラーリ内部では「F1エンジンを搭載したロードカー*1」を制作したいという意見もあったことと、当時のフェラーリのロードカー用のV12エンジンにストレスマウントとして用いることができる強靭なエンジンがなかったということがF1直系のエンジンの選択という答えを出した。
- しかし、ロードカーとして中途半端な排気量と、どう調整しても元が超高回転型のF1エンジンなため、実用域のトルクがやや細く、重い駆動系や電子制御のない操作系と相まって、非常に扱いづらいという評価もある。
- 余談であるが、5バルブのF1エンジンはスバルやヤマハも開発したが、フェラーリも含めF1での勝利はゼロだった。
- 運が悪かったのは、先んじて1994年にマクラーレンF1がデビューしてしまったこと。
当然、両車はさまざまな場面で比較対象にされたが、それを受けて当時のフェラーリの上層部が「F50はマクラーレンのような速さを求めた車両ではない」とわざわざ口にするほどだった。つまり、スポーツカーとしての"速さ"という部分に関しては素直に負けを認めていたのである。
トラクションコントロールなどの電子制御がないという点は共通だったが、F50はHパターンの6速ミッションの操作(シフトフィール)、アクセルやクラッチの踏み込み、ハンドルなどの操作系全般がマクラーレンより重く、古典的なレーシングカーの操作ほぼそのままだったことがマイナス評価につながった。
また、エンジンも上記に記した通りロードユースの面でも扱いづらい上、レースに持って行っても(下記333SPの所を参照)安定した速さが得られなかったことも相対的に評価を下げる要因になった。
元レーシングドライバーの中谷明彦いわく、「レーシングスリックタイヤじゃないと本来の性能を発揮できない」とのこと。
- そして、欧州の排ガス規制も厳しくなって行くことが決まっていて、代わりに乗せるエンジンも当時はなく、349台製造したのみで販売を止めてしまった(F40の追加注文を受け、予定を大幅に上回る製造台数になったのとは対照的である)。このことから、仕切り直しという意味でエンツォの開発が始まって行く。
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| | 派生モデルの解説
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- ダラーラに依頼しレース専用車として当時のGT1の規定に適合するF50GTが3台制作されたが、1995年のル・マンでのF40の敗退*2や、1996のポルシェ911GT1の登場。そして下記の333SPの苦戦などを受け、1度もレースに出ることなく、日本、アメリカ、ドイツの販売代理店等に「レースに出場させないこと」を条件に譲渡された。日本ではフォーミュラニッポンなどのレースイベントの中でデモンストレーション走行が行われていた。
- 1994年にデビューしたプロトタイプレーシングカーの333SPのエンジンは、本車両のエンジンをベースにIMSA-GTPの規定に沿うよう改修された物が使われていた、排気量はIMSA-GTPの1994年以降の規定であった4,000cc未満になるように収めた。一方で、市販車のエンジンという規定に当てはまらないエンジンだったのだが(F50の販売前)、減少するGTPクラスの参加車両を集めるために参戦が認められたという経緯がある。
初年度は順調に勝利を上げるも、翌年以降にレブリミッターが低くなるよう性能調整され速さが落ち、1995年のル・マンでも苦戦し、F50も含めフェラーリのワークス体制レベルでのル・マン参戦は縮小していく。
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