エディット作成用情報まとめ
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| 項目 | 5エンパ | 6エンパ | |||
|---|---|---|---|---|---|
| 数量 | 備考 | アプデ、DLC | |||
| 髪 | 髪型 | 20 | 60 | 防具による変化あり | さらに8点追加 |
| 色 | 20 | 同数 | 色彩変更あり | 256色 | |
| 輪郭 | 3 | 同数 | 微調整可能化 | ||
| 肌色 | 10 | 変化なし | |||
| 眉 | 形 | 調整不可能 | 11 | 微調整可能 | さらに5点追加 |
| 色 | 調整不可能 | 10 | |||
| 目 | 形 | 6 | 18 | 微調整可能化 | |
| 色 | 調整不可能 | 15 | |||
| 化粧 | 形 | 調整不可能 | なし+4 | ||
| 色 | 調整不可能 | 10 | |||
| 鼻の形 | 6 | 同数 | 微調整可能化 | ||
| 口 | 形 | 6 | 同数 | 微調整可能化 | |
| 色 | 調整不可能 | 19 | |||
| 項目 | 5エンパ | 6エンパ | |
|---|---|---|---|
| 数量 | 備考 | ||
| 体型 | 3種 | 6種 | |
| 頭の大きさ | 調整不可能 | -2〜+2 | |
| 身長 | -10〜+10 | 同数 | 1メモリに対応する幅が変更 実際の身長は下記を参照 |
| 太さ | -10〜+10 | 同数 | 胸の大きさは変わらなくなった |
| 腕の長さ | 調整不可能 | -2〜+2 | |
| 腰の高さ | 調整不可能 | -2〜+2 | |
| 胸の大きさ | 調整不可能 | -2〜+2 | |
イベント「大手柄」での身長測定。設定資料集記載の無双キャラ身長で比較。
※体型は基本型。頭、腰の高さはデフォ状態(-1、+2目盛り)。
男:最小165 中央180 最高205
女:最小160 中央170 最高195
上記を見れば判る通り5エンパとは違い今作では1目盛り何cmという増減の仕方ではない。
デフォで最大になっている腰の高さを最小にすると-10cmくらいになるので最小キャラは男155 女150
体型変更でも微妙に差が出る(同じ体型名でも男女で差が違う)。
男女共にモデル体型が一番高く、数cm増加されるが丁奉よりも高身長には出来ない。
| 参考:無双武将の身長 |
秘計発動時に武将が行うポーズは、エディット時に設定したEXタイプによって決まる(設定した武将と同じ動作になる)。
そのため、龐統など特徴的なポーズをとる武将のEXを設定した場合は、エディットのイメージと合わなくなるかもしれないので注意。
さらに同じポーズでも音声タイプによって微妙に表情が変わる。こちらは無双乱舞も同様。
| 名称 | 使用武将 | |
|---|---|---|
| 無双乱舞1 | 堅牢橋 | 黄蓋 |
| 金剛大旋風 | 張飛 | |
| 陥穽糸 | 司馬懿 | |
| 銀蓮 | 貂蝉 | |
| ころがるぞお | 許褚 | |
| 疾風礫 | 丁奉 | |
| 爆炎破 | 祝融 | |
| 強烈回転脚 | 関索 | |
| 猫々天昇斬 | 鮑三娘 | |
| 無双乱舞2 (R1) | 抜山蓋世撃 | 黄蓋 |
| おこったぞお | 許褚 | |
| 獣王 | 孟獲 | |
| 対象確保 | ?艾 | |
| 烈風猛襲脚 | 関索 | |
| 無双乱舞2 (空中) | 拘束糸 | 司馬懿 |
| 壊滅暗黒球 | 董卓 | |
| 猫々回転 | 鮑三娘 |
| 名称 | 使用武将 | 理由など | |
|---|---|---|---|
| 無双乱舞1 | 大爆殺 | 董卓 | 投擲武器であり投げ切ってしまうため、違和感は無い。 |
| 天狼七星陣 | 王元姫 | 上記に同じ。 | |
| 無双乱舞2 (R1) | 火神天舞 | エディット専用モーション | 髪をかき上げてから鏢を取り出す動きがあるので、女性や長髪の武将なら。 |
| 無双乱舞2 (空中) | 紅蓮弓 | 孫尚香 | 圏が一瞬だけ映るがほとんど分からない。 |
| 飛炎脚 | 王元姫 | 武器は持っているが目立たないため、武器無しと同じように見えなくもない。 |
| 名前 | 性別 | 血縁、活躍、人物像など |
|---|---|---|
| 尹氏 | 女性 | 何進の息子の元妻。何晏、曹矩の母。曹操が司空のときに側室とし、連れ子の何晏も引き取られた。 このとき曹操は、(杜氏の連れ子の)秦朗も養子として引き取っていたが二人とも我が子のように養育された。 後に息子の何晏は杜氏の娘の金郷公主を娶っている。 |
| 隠蕃 | 男性 | 魏の人。曹叡の命で、呉の攪乱を目的に偽装投降した。 その優れた弁舌によって朱拠や郝普らと交友を結ぶも、後に目論見が発覚し処刑された。 |
| 韋誕 | 男性 | 魏の官僚。韋康の弟。 「草聖」と呼ばれるほど草書に通じていた。魏王朝の宝器の銘題は、全て韋誕が書いたと伝えられる。 また、縄を付けた籠に載せられ、地上約60mの高さまで引き上げられて、扁額を書かされたという逸話がある。 韋誕は恐怖の所為で、髪も髭も白くなってしまい、子孫には決して書道を学ばないように、書き残したとされる。 |
| 衛瓘 | 男性 | 魏の臣。蜀討伐の監軍として従う。 蜀滅亡後、鍾会の命で?艾父子を捕らえ、鍾会が謀反を起こすと、鍾会、姜維を倒し、田続に?艾父子を殺させた。 晋が興ると重職を歴任し司空まで昇るが、恵帝即位後に賈皇后に粛清された。書家でもあり、草書に優れていた。 |
| 衛臻 | 男性 | 衛茲の子。魏の政治家。夏侯惇に計吏として登用された。 曹丕が即位すると魏の散騎常侍となる。政務だけでなく戦略眼にも優れた。 |
| 王氏 | 女性 | 郭淮の妻。王凌の妹。郭統の母。 王凌が処刑されるとその罪に連座し逮捕された。これを聞いた部下や羌族ら数千人が助命を上奏するよう嘆願したが郭淮は従わなかった。 しかし、郭淮の五人の息子も叩頭して要請したため見るに忍びず、部下に追わせて妻を取り返した。 郭淮は司馬懿に文書で「妻を失えば、身を賭す息子らも失い、ゆえに(後継ぎのない)自分は死ぬも同然です。 そのため追って妻を取り戻しましたが、このことが法に背くのであれば、当然罰を受ける覚悟です。」と伝えた。文書が届くと司馬懿は彼らを許した。 |
| 王祥 | 男性 | 60歳を過ぎて呂虔に召された。 魏、西晋の大臣で、「二十四孝」の一人として知られる。呂虔から三公の位に登るといわれる刀を譲られた。 |
| 王粛 | 男性 | 王朗の子。王元姫の父。18歳で宋忠から「太玄経」を学んだ。広平太守、侍中、太常などを歴任。 司馬師の死後、司馬昭に封爵を与えるよう曹髦に進言した。 |
| 王弼 | 男性 | 王業の子。王粲の一族。何晏らと共に、「玄学」を創始したとされている。 『老子』『易(周易)』の注釈を書き、『道略論』を著述した。鍾会とは仲が良く「聖人」についての議論が史書に残っている。 |
| 郭奕 | 男性 | 魏の臣。郭嘉の子。郭嘉の死後、曹操の館に引きとられた。のちに魏の太子文学となる。 博学だが、相手によって態度を異にしたという。 |
| 夏侯栄 | 男性 | 魏の将。夏侯淵の五男。7歳にして文書を書き、曹叡の友人であった。 定軍山の戦いで父の戦死を知ると、劉備の軍に突入し、戦死した。享年12歳。 |
| 夏侯儒 | 男性 | 夏侯尚の従弟。張既と共に涼州方面で活躍。 242年、朱然ら五万が樊城を包囲したため救援に来たが、寡兵であったため陽動だけを行い司馬懿到着まで時間を稼いだ。 |
| 華佗 | 男性 | 医師。「神医」と呼ばれた伝説的名医。 麻沸散という麻酔薬を手術で使ったとされる。曹操暗殺の嫌疑で獄死した。医学書「青嚢書」を獄吏に託すも焼失した |
| 戯志才 | 男性 | 曹操配下の臣。荀?の推挙で曹操に仕える。 策略に優れ、重用されたが若くして死んだ。そこで荀?は、戯志才の後任に郭嘉を推挙した。 |
| 阮瑀 | 男性 | 建安七子の一人。蔡邕に師事して、学問を修めた。 陳琳とともに章表書記にすぐれ、檄文の起草にあたった。 |
| 管輅 | 男性 | 占師。天文、周易(易経)に通じ人の命数を見ることができた。 曹操に呼ばれて占いを披露。蜀の攻勢と夏侯淵の戦死、魯粛の病死、許昌の火災を言い当てた |
| 魏諷 | 男性 | 後漢の臣。鍾繇に召し出された。 曹操が劉備との漢中攻防戦で出征中に、衛尉の陳禕と共謀して鄴を乗っ取る計画を立てる。 しかし、密通者がいたため失敗した。 |
| 牽招 | 男性 | 牽弘の父。魏の雁門太守。袁紹、袁尚に仕え、曹操に降る。 当時、烏丸族は袁譚に協力し騎兵を繰り出していたが、趙王・蘇僕を説き伏せ援兵を中断させた。 曹丕即位後、異民族統治や水路の開通などで功績を挙げる。辺境統治の評判は田豫に次ぐ。 |
| 耿紀 | 男性 | 魏の侍中。若くして名声があり、丞相掾に就くと曹操に評価され侍中に昇進し、少府を代行した。 ある時、杜畿が訪ねて来て一晩中語り明かしたが、隣家でそれを聞いた荀?は杜畿の非凡さを知り推挙した、という逸話が残っている。 218年、曹操の留守中に吉本・金禕・韋晃らのクーデターに加担したが、失敗し討伐された。 逮捕されると「わし自らがことを謀らなかったばかりに、小僧共に狂わされたことが残念だ!」と言って処刑された。 |
| 高堂隆 | 男性 | 魏の官僚。曹操に召されて丞相府に入る。 曹丕の代に曹叡の守り役となり、学術天文に優れていたことから暦の研究を命じられた。 曹叡が即位すると陳留太守などを歴任。曹叡が宮殿の造営を続けると、厳しくいさめた。 |
| 国淵 | 男性 | 魏の官僚。師の鄭玄から絶賛された。 曹操に仕え、屯田政策を統括し、5年間で国庫を回復させた。 潼関の戦いの頃、河間で田銀と蘇伯が反乱を起こすとこれを鎮圧。その功績で魏郡太守となる。 |
| 呉質 | 男性 | 魏の官僚。朝歌の県長。曹丕と親交があり、曹操の歓心を得させた。 曹丕の即位後、傲慢な態度を取り、死後、一時期醜侯と呼ばれた。魏を代表する文人の1人。 |
| 崔林 | 男性 | 魏の官僚。崔琰の従弟。 若い頃は崔琰以外からは評価されなかったが、曹操が冀州を平定した頃には、徳政の評判から曹操に召し出された。 御史中丞や尚書などを勤めた後に幽州刺史となるが、上司の呉質にへつらわなかったため左遷され、人々に惜しまれる。 曹叡が即位すると光禄勲、司隷校尉となり、司空まで昇った。 また、後に名士となる王経を平民の中から抜擢したことで、称賛を受けた。 |
| 車冑 | 男性 | 後漢の徐州刺史。曹操と劉備が呂布を討った後、劉備の代わりに徐州を治めた。 その後、袁術討伐のために徐州に入った劉備を、曹操の命で討伐することになり、陳登に相談をもちかける。 しかし、劉備に味方する陳登によって計画が漏れ、関羽と張飛に斬られた。 |
| 周不疑 | 男性 | 劉表の幕僚・劉先の甥。若くして才能にあふれ、曹操からは会ったその日に娘の縁談を申し込まれたほどであった。 曹操の烏丸討伐に従軍し、柳城攻略の十通りの計略を献上したという逸話が残る。 曹操の息子の曹沖の学友にと期待されていたが、曹沖死後は曹操から疎まれ殺害された。 その際、曹丕が諫めたが、曹操は「かの者は、お前では御しきれぬ」と言ったという。享年17歳。 |
| 鍾毓 | 男性 | 魏の重臣・鍾繇の子。鍾会の兄。諸葛亮が祁山に進出した際、自ら迎撃しようとする曹叡をいさめた。 後に曹爽が蜀に遠征し、夏の暑さで苦戦した際も撤兵を勧めた。他にも農民の賦役を軽減し、 農業を振興するように上奏するなど、民の労苦を考慮した献策を続けた。 御史中丞、侍中、廷尉、尚書、青州刺史などを歴任し、後に徐州や荊州の軍事を統括した。 |
| 邵悌 | 男性 | 魏の官僚。263年、司馬昭が鍾会に蜀討伐戦を命じた際、「鍾会は野心家だから兵権を委ねるべきではない」と進言。 鍾会と?艾が蜀を滅ぼした後、?艾に謀反の疑いがあると鍾会が上奏し、 司馬昭が?艾逮捕の軍を起こすと、「鍾会に?艾逮捕を命じればよい」と進言したが却下された。 |
| 徐邈 | 男性 | 魏の官僚。曹操が河北を平定した際に見出され、南安、平陽、安平などの太守を歴任し、各地で業績を上げた。 曹叡の代には涼州刺史となり、水田開発、教育、西域との通行などに尽力。西方異民族の入貢を受けるようになる。 その後、中央に戻り、大司農、司隷校尉、光禄大夫などを歴任し、百官から敬慕された。 晩年、司空に任ぜられたが固辞。酒好きで、禁酒令を破って曹操の怒りを買い、鮮于輔の取りなしで刑を免れたことがある。 |
| 石韜 | 男性 | 同郷の徐庶と親交があった。董卓が政権を握り、中原で争いが起きると、2人で南方に逃れる。 荊州で諸葛亮、徐庶、孟建と遊学し、諸葛亮から「仕官すれば刺史か郡守になる」と評された。後に荊州が曹操の支配下に入ると北に帰還。 曹丕の代に魏に仕官し、郡守、典農校尉を歴任した。 石韜が高官に就いていないことを知った諸葛亮は、魏の人材の豊富さに驚いたという。 |
| 鮮于輔 | 男性 | 魏の将軍、政治家。劉虞に仕えていたが、劉虞が公孫瓚に殺害された後、閻柔を旗頭に漢族・北方民族連合数万の軍を集め、復仇の戦を起こす。 共通の敵を持つ袁紹軍と合流し、公孫瓚を滅ぼす功績を挙げ、滅亡後は旧領の統治を行った。 曹操と袁紹の戦いで北方が混乱すると、田豫から曹操への帰順を説かれ、曹操に降伏。烏丸遠征にも従軍し、曹丕の即位後、虎牙将軍・輔国将軍を歴任。 北方民族との交渉窓口も務め、鮮卑の大人(酋長)軻比能との折衝に当たった。 |
| 曹奐 | 男性 | 魏の燕王・曹宇の子。曹操の孫にあたる。魏最後の皇帝。 260年、第4代皇帝・曹髦が殺されると、司馬昭に迎えられて皇帝に即位した。265年、司馬昭の子・司馬炎に譲位を強要される。 情けを請うが聞き入れられず、賈充、裴秀の勧めによって禅譲を決意した。こうして魏は滅び、曹奐自身は陳留王となった。 |
| 曹節 | 女性 | 曹操の娘。曹丕の妹。姉・妹とともに献帝に嫁ぎ、後に皇后(献穆皇后)となる。 曹丕から献帝に禅譲を迫る使者が来るとこれを阻むが、数日にわたるやり取りの末、ついに「天に祝福されないのか」と言って伝国璽を投げ付け、涙を流した。 |
| 曹芳 | 男性 | 魏の明帝・曹叡の養子。魏の第三代皇帝。曹叡の死後、わずか8歳で即位。 当初は曹爽に政権を掌握されるが、249年に司馬懿が曹爽を打倒した後は、司馬一族が政治を取り仕切った。 254年、自らをないがしろにする司馬師を憎み、夏侯玄、李豊、張緝らに司馬一族打倒の密勅を与えるが、露見。 夏侯玄らと張緝の娘に当たる張皇后は殺され、自らは斉王に格下げされた。 |
| 棗祗 | 男性 | 後漢末の将。董卓討伐に従事した後、兗州牧曹操に出仕。 張邈・陳宮らの造反に対し、棗祗は東阿の官民を統率して守備を固めた。 陳宮は直接東阿を攻撃するが、程?が倉亭津を破壊したので行軍が遅れ、結局失敗した。 羽林監時代、韓浩らと共に曹操に屯田制の実行を進言。最初、曹操は採用を躊躇うが、採用を熱弁したため、屯田都尉を拝命し実施に当たる。 屯田は顕著な成果を挙げ、後に任峻が大々的に展開し、曹操陣営の軍事力は飛躍した。 |
| 倉慈 | 男性 | 魏の政治家。淮南での屯田で綏集都尉を務める。曹丕の代に長安令となり、曹叡が即位すると敦煌太守となる。 敦煌は戦乱の中で隔絶され統治されていない状態だったが、倉慈が赴任すると、土地の権力者を押さえ、貧しい民を救済した。 土地を民に振り分け、法治のもとに裁決を下した。西域との貿易で公平な利益が出るよう取り計らい、異民族はその徳を讃えて服した。 数年この職を務めて在官のまま没し、官民は悲しみながら倉慈の遺像や祠を立てて慕い祀ったという。 |
| 曹沖 | 男性 | 曹操の子。母は環氏。曹拠、曹宇の兄。年少期から聡明で理解力に優れていた。 202年、孫権から象が献上された際、群臣の中で1人だけ象の重さの量り方を考案し、曹操を喜ばせた。 判断力、仁愛の情を曹操から愛されていたが、13歳で病没。名医の華佗を処刑したことを曹操に後悔させた。 曹丕も「倉舒(曹沖の字)が生きていたら後継者になれなかった」と漏らしている。 |
| 蘇則 | 男性 | 魏の政治家、武将。酒泉、安定、武都の太守を歴任し、その統治に威名があった。 曹操の張魯討伐の際に見出され、曹操の軍を先導した。張魯が投降すると、下弁の氐族、金城の羌族を慰撫する。 涼州の民心を安定させ、農耕技術を教えたため、数千家が帰順した。麹演が涼州で大規模な乱を起こすと郝昭らと平定に従事し、偽降してきた麹演を斬った。 曹丕が禅譲を受けて後漢が滅ぶと慟哭した。曹丕の狩猟に随行した際に、過失を侵した官を斬ろうとした曹丕を諌める。 これを曹丕に疎まれて左遷され、任地の東平に向かう途上で没した。 |
| 張既 | 男性 | 魏の官僚。曹操が司空になると召還された。 袁尚軍との戦いでは鍾繇の命で馬騰を説得し、馬超らに郭援を討たせた。 曹操が荊州攻略に動き出すと、後顧の憂いを絶つために馬騰に出仕を促して馬超に軍勢を統率させる。 馬超が反乱を起こすと、曹操に従い鎮圧に当たった。 魏建国後は尚書、雍州刺史となり、張魯討伐、劉備との漢中攻防戦に参加する。曹丕即位後は異民族の反乱平定に奔走した。 |
| 趙昂 | 男性 | 天水の参軍事。妻は王異。馬超に対し挙兵し、楊阜と協力して退けた。 漢中で戦死した益州刺史・趙顒と同一人物という説がある。 |
| 張節 | 男性 | 魏の臣。曹奐に向かって禅譲を迫る司馬炎を罵倒する。激怒した司馬炎は部下に命じて棍で撃ち殺させた。 |
| 張特 | 男性 | 魏の武将。牙門将軍。合肥新城を守る。 253年、諸葛恪に包囲されて城壁を崩されると、呉軍に「魏の法律では100日以内に援軍が来なければ、降伏しても罪を問われないことになっている。 あと数日で100日になるから、待ってほしい」と申し出る。 呉軍が攻撃を中止すると、その間に城壁を修復。戦闘を再開して諸葛恪に矢を射当て、呉軍が暑さと疫病で退却するまで戦い抜いた。 |
| 陳瑀 | 男性 | 魏の幕僚。陳本、陳騫の父。 孫策や袁術からの任用を断り、陳登と共に曹操に付き孫策の侵攻を防いだ。赤壁の戦いの後、曹仁と共に江陵を守る。 攻め寄せた周瑜を迎撃し、周瑜戦死の偽報に乗せられて曹仁が出陣している間、城を守備した。 後に中央に移って魏郡太守となり、漢中討伐の後、尚書に就任。尚書令を経て、司徒まで昇った。 |
| 丁儀 | 男性 | 魏の官僚。曹植の腹心。丁沖の子。丁廙の兄。 文才に優れた。斜視を理由に縁談を曹丕に阻まれたこともあり楊修、丁廙と共に、曹植を曹操の後継者にすべく画策。 曹丕が後継者に決まると、不遇を恨む曹植と共に飲酒にふけった。 曹操が死に、曹丕が魏王となると、葬儀に出席しない曹植を詰問する使者に、「曹植が魏王になるべきだった」と言い、曹丕の怒りを買って殺された。 その才は多くの人々に惜しまれた。 |
| 鄭渾 | 男性 | 魏の政治家。鄭泰の弟。淮南に避難し袁術に厚遇されたが、後に華歆の下に投じ、曹操に召された。 任地で桑畑や稲田を奨励して豊かにさせ、人々に喜ばれ「鄭」を字にする男女が増加するほどだった。 その後、関中に赴任して梁興に対抗して民心を安定させ、夏侯淵の梁興討伐を支援した。 京兆尹でも農業を推進し、曹操の漢中侵攻の兵站を担い賞賛される。 曹丕の代にも痩せた土地で灌漑を行って民を利し、曹叡によって治績が全国に公布された。 |
| 丁氏 | 女性 | 曹操の初代正室。子に恵まれず、生母を亡くした曹昂を代わりに愛育した。 宛城の戦いで愛する子を失った悲嘆で、彼女と曹操の仲は冷え込んでしまう。 曹操は気持ちが修復するのを待つため一旦は彼女を実家に帰らせるが、心の溝は終生埋まらず、そのまま離縁した。 |
| 丁斐 | 男性 | 曹操の同郷人。賄賂を得たり、上司の牛を盗んだりと品行に優れなかったが曹操は側に置いた。 馬超との戦いで曹操の渡河中に馬超軍が追い迫った時には、陣中の牛馬を全て放って、馬超軍の気をそらして曹操の危機を救った。 典軍校尉に復帰後数年で病死。 |
| 丁謐 | 男性 | 丁斐の子。明帝(曹叡)のとき度支郎中として召された。 斉王曹芳が立つと、散騎常侍となり、尚書に転じて、曹爽に重んじられた。しばしば人を弾劾し、貴人を侮蔑したので憎まれた。 正始十年(249)、司馬懿の起こした政変により殺された。 |
| 杜畿 | 男性 | 魏の官僚。杜恕の父、杜預の祖父。荀?の推薦で曹操に仕える。 河東太守として農業生産の回復、軍事訓練、学校開設などに尽力する。馬超の反乱では、兵糧の調達をすべて河東郡でまかない、漢の蕭何に並び称された。 魏建国後は尚書僕射などを歴任。曹丕が呉を攻めた際は留守を任される。その後、皇帝の御座船建造の指揮を執るが、試走中に船が転覆し溺死した。 |
| 杜恕 | 男性 | 杜畿の子。杜預の父。曹叡(明帝)の時代に散騎黄門侍郎に就く。 杜恕は中央にいること八年、常に正論をもって意見を述べた。その性格の為に周囲とうまく合わせる事ができなかったため、しばしば外地の任務に就いた。 幽州刺史のときに過失から弾劾され平民に落とされた。 杜恕は暇な身分を利用して8節の『体論』と1篇の『興性論』という書を著し、章武郡で亡くなった。 |
| 馬鈞 | 男性 | 魏の科学者。若い時は遊び暮らしていたが、生活に苦しくなり織機を改良。 発明の才能を開花させる。魏に仕えてからも様々な発明をし、曹叡に指南車、水車、機械仕掛けの人形などを献上した。 連弩や投石車の改良なども構想した。晋の傅玄から「天下に名高い器用者」と評された。 |
| 畢軌 | 男性 | 魏の官僚。若い頃から名声があり、明帝から重用された。 并州刺史となるが異民族討伐に失敗し、蒋済の進言で中央に戻った。 後に曹爽が実権を握ると取り巻きの一人となる。司馬懿のクーデターの折に始末された。 |
| 傅幹 | 男性 | 初め馬騰に仕え、袁尚や高幹と手を結ぼうとするのを止めさせ、曹操への協力を説いた。 その後、曹操配下に転じてからは、劉備の益州攻めの成功を予見した。 また、建安19年(214年)秋7月、曹操が孫権を討伐しようとすると、徳をもって懐柔するのが良いとして征伐を諌めたが、聞き入れられなかった。 結局この征伐は、捗捗しい戦果を残せずに終わっている。 |
| 毛玠 | 男性 | 曹操の幕僚。崔琰と共に官吏選抜を担当。 清廉公明な人選で堅苦しいと苦情が出るほどだったが、曹操に擁護された。 216年、崔琰の処刑に不満を漏らしたと訴えられ入獄。桓階、和洽の弁護で死は免れるが、免職された。 |
| 孟建 | 男性 | 諸葛亮、徐庶、石韜と共に荊州で遊学し、諸葛亮から「刺史か郡守の器」と評される。 魏に仕え、温恢の死後、涼州刺史となり、優れた政治手腕を発揮した。 諸葛亮は北伐で祁山に出陣した際、司馬懿からの書状の返答を持ち帰る杜襲に「公威(孟建の字)によろしく」と伝えさせている。征東将軍まで昇進した。 |
| 游楚 | 男性 | 魏の官僚。父の游殷が張既を気に入り息子の将来を託したことから、父の死後、張既に推挙され曹操に仕える。 涼州方面の太守を歴任したが、どの任地でも恩恵をもって統治した。 諸葛亮の第一次北伐が開始されると、天水・南安二郡の領民は蜀軍に呼応して太守を追放したが、 隴西太守であった游楚は、利害を説いて領民を説得し十日余りの攻勢を防ぎきった。 この功を以って列侯に封ぜられ、昇殿すらも許された。 |
| 劉靖 | 男性 | 魏の武将、政治家。劉馥の子。 河南尹となると民に農蚕の指導を行い、治安向上や防災政策、官吏の綱紀を引き締める仁政を行い、劉馥の遺風を継いだと賞賛された。 鎮北将軍・仮節都督・河北諸軍事に任じられると、侵犯する異民族ごとに防衛策を策定し、北辺の守備に功績を上げた。 薊で堤防を築いて戻陵堰を修復し、灌漑を整備し稲作を奨励して民を利した。 |
| 劉馥 | 男性 | 曹操の揚州刺史。袁術配下の戚奇と秦翊を説き伏せ、共に曹操に仕えた。 曹操が袁紹一族との戦いに奔走している間、揚州刺史となり、梅乾、雷緒、陳蘭の横行に対処した。 以後、学校建設、屯田、堤防や灌漑の整備、合肥の城壁強化など数々の功績を上げた。 建安13年(208年)に死去しが、劉馥が築いた堤防や蓄積した物資は、孫権の合肥攻撃の際、これを撃退する上で大いに貢献した。 |
| 梁習 | 男性 | 魏の并州刺史。曹操が司空になると、召し抱えられて各地の県令を歴任し、功績を上げた。 曹操が高幹を討伐して并州を支配した後、并州刺史となり、匈奴を恭順させて辺境地帯に平穏をもたらした。 曹丕の代にも并州刺史に就任。辺境経営の功績は天下第一と評される。曹叡の代に中央に戻り、大司農に任ぜられた。 |
| 令狐愚 | 男性 | 魏の官僚。王凌は叔父にあたる。 本名は令狐浚であったが、些細なことで田豫を批判したことを曹丕に咎められ投獄された後に「愚」と名をあらためた。 249年に司馬一族が権力を握ると、令狐愚は皇帝(曹芳)が若年であるため司馬一族の専横を許していると考え、皇族で年長の曹彪を皇帝に擁立を計画。 強大な軍権を有していた叔父の王凌を、この計画の首謀者に仕立て上げた。 しかし、令狐愚は計画の途中で病気に罹り死去した。 |
| 婁圭 | 男性 | 曹操の幕僚。諸侯が董卓打倒の軍を起こした時、荊州の北境で兵を集め、劉表と同盟を結ぶ。 その後、曹操に仕え、軍事、国家の大計には必ず参画。 馬超の討伐では多大な功績を上げ、曹操に「子伯(婁圭の字)の立てる計略は、わしも及ばぬ」と評された。 しかし、後に不遜な発言をしたため、曹操に処刑された。 演義では夢梅居士と号し、渭水の戦いで馬超軍の夜襲に悩む曹操に、寒気を利用して氷の城を作るよう教えた。 |
| 名前 | 性別 | 血縁、活躍、人物像など |
|---|---|---|
| 韋昭 | 男性 | 呉の臣。正史に登場する。 文才があり孫皓に重用されたが態度が反抗的とされて処刑された。 正史では晋文帝・司馬昭の名を避けて「韋曜」と記されている |
| 賈華 | 男性 | 呉の武将。赤壁の戦いの直後、合肥に出陣した孫権を宋謙と共に護衛した。 劉備が孫権の妹との婚礼のため甘露寺に赴いた際、孫権と呂範の命で兵を潜ませる。 呉国太が劉備を気に入らなかった場合、劉備を斬る手はずだったが、劉備に察知された。 劉備を気に入った呉国太の怒りを買い処刑されそうになるが、劉備のとりなしで命を助けられた。 |
| 賀斉 | 男性 | 呉の武将。孫策、孫権に仕えた。陸遜とともに山越討伐に活躍した。 豪奢な性格で、上質かつ派手な武器、防具、軍船を好んで使用した。 |
| 何植 | 男性 | 呉の司徒。孫晧の母・何氏の弟で孫晧の叔父。 279年、司馬炎が呉討伐軍を起こすと、孫晧に対応策を問われた。 |
| 王惇 | 男性 | 呉の武将。219年、孫権が献帝に献上物を捧げた際、馬の購入を命じられた。 256年、孫慮から孫綝誅殺を持ちかけられるが、発覚して殺された。 |
| 賈覈 | 男性 | 呉の臣。文章学識を評価され、孫皓の代に右国史となり、韋昭、薛瑩らと共に「呉書」の編纂に当たる。 たびたび孫皓をいさめたが咎は受けず、長らく任用された。しかし、275年(呉滅亡の五年前)晋への侵攻を諌めると左遷された。 |
| 郭馬 | 男性 | 呉の合浦太守脩允の私兵隊長。 脩允が死亡して私兵の解散が命じられると、反乱を起こした。反乱は交州一帯に広がり、晋の呉討伐を招いた。 |
| 闞沢 | 男性 | 呉の幕僚。孫権即位後、尚書、中書令。 後に太子太傅となり、孫和を教育する。呉の暦「乾象暦注」を著し、虞翻から「現代の董仲舒」と称賛された。 |
| 虞? | 男性 | 呉の武将。虞翻の第四子。虞翻の子の中で第一の名声を得た。 陶璜とともに交趾を攻め落とし、晋から交州を奪回した |
| 魏邈 | 男性 | 呉の武将。 孫綝が武昌に駐屯したいと願い出た時、「孫綝を地方に出せば必ず謀反を起こす」と孫休に説いた。 孫綝が武昌に駐屯すると、孫綝が武器と兵士を集め謀反を企てていると奏上。 丁奉の計略で張布が孫綝を討伐した際、丁奉、施朔と共に孫綝の弟たちを捕らえた。 |
| 嬀覧 | 男性 | 爲覧とも。というか嬀の字が一覧にない…。 孫翊の部下だったが、同僚の戴員と共に謀反を起こして孫翊を殺害し、その罪を実行犯の辺洪になすりつけてこれも殺害。 さらには孫翊の妾や侍女に手を出したうえに、二人の行為を叱責した孫河も殺害する。 ついには孫翊の妻である徐氏にも言い寄るが、徐氏は「夫の喪が明けるまで待って欲しい」と切りぬける。 その後「喪が明けたから」と呼び寄せられたところを、徐氏が用意していた伏兵によって戴員と共に斬られた。 |
| 厳? | 男性 | 呉の官僚。張昭の推薦で孫権に仕える。 軍事は苦手で(孫権が試したところ馬に乗れなかった)、魯粛の後任になるのを固辞した。 孫権が即位した後、蜀への使者となって諸葛亮に評価された。78歳で死去。著作に「孝経伝」「潮水論」がある。 |
| 高寿 | 男性 | 呉の武将。孫韶の配下。225年、魏の曹丕(文帝)が昨年に続いて再び広陵に侵攻してきたが、長江が凍りついたため船を入れられず撤退した。 この時、孫韶の指揮で500の兵と共に奇襲をかけて、曹丕の副車と羽蓋を奪う功績を挙げた。 |
| 伍延 | 男性 | 呉末期の将。晋が呉討伐戦を起こすと、丞相・張悌の献策で都督として江陵に赴任。 攻め寄せた杜預を迎撃するが、同僚の陸景が張尚に斬られ味方が総崩れになると城を捨てて逃走。 その途上、伏兵にあって捕らえられ、杜預の前に連行されて斬られた。 |
| 谷利 | 男性 | 呉の武将。孫権の側近で、謹直な性格を孫権に賞されて親近監を務めた。 合肥の戦いに随軍し、退却時に張遼の追撃を受ける。逍遥津の橋が断たれていたが、孫権の乗馬に鞭を入れて馬を跳ばし孫権の窮地を救った。 孫権が巨艦の試験航海に出た際に嵐に遭遇すると、孫権の航海続行の命令に反し、舵取りに剣を向けて近くの樊口に行くよう命じた。 孫権から臆病者と誂われるが、孫権を失って呉に影響が出ることを怖れたと答えた。 以後、孫権は谷利を重視し、名前で呼ばず「谷」と呼んで敬意を払われた。 |
| 吾彦 | 男性 | 呉の建平太守。西陵の戦いに参戦。 長江を流れる多量の木屑から、晋の軍船建造を察知。その襲来を予見し、鉄鎖で長江を封鎖した。 晋の侵攻時は建平郡を死守。呉主・孫皓の降伏を知り、投降する。 |
| 吾粲 | 男性 | 呉の武将。孫策の死後、孫権が江東で人材を募ったときに参画。 孫和と孫覇が後継者問題で争ったとき、孫和を擁護したため孫覇に讒言され、獄死する |
| 胡綜 | 男性 | 呉の政治家。胡沖の父。幼い頃父を亡くして母と江南に移住し、孫策に見出される。 孫権とは同年代で、机を並べて共に勉強した。孫策没後は孫権に従い、黄祖討伐や夷陵の戦いで活躍する。 晋宗が魏に寝返ると賀斉・糜芳らと共に討伐し、周魴と共に鄱陽の賊を討伐した。 政治面では国政全般の処理に携わり、外交書や官位の任命書、魏の呉質に寝返りを勧める手紙などを起草した。 |
| 顧譚 | 男性 | 顧雍の孫。諸葛恪らとともに孫登の太子四友となる。 孫和と孫覇が後継を争っているとき、孫和を擁護。孫覇派の全寄らに陥れられ流罪となり、憤死した |
| 胡沖 | 男性 | 呉の中書令。胡綜の子。 晋軍が迫ったため自決しようとした孫晧に対して、光禄勲の薛瑩とともに、蜀帝・劉禅にならって降伏するよう上奏した |
| 左奕 | 男性 | 西陵の歩闡が晋に投降した際、陸抗の指揮下で討伐に向かう。 吾彦、蔡貢らと共に西陵を包囲し、歩闡の救援に来た羊祜、楊肇らを迎撃した。 |
| 施朔 | 男性 | 呉の武衛士。実権を握っていた孫綝が武昌に駐屯した際、魏邈と共に「孫綝に謀反の動きがある」と呉帝・孫休に奏上した。 丁奉の計画で張布が孫綝を討った後、丁奉、魏邈と協力して孫綝の弟たちを捕らえた。 |
| 謝旌 | 男性 | 呉の武将。関羽の復讐のため、劉備が宜都(ぎと)に攻め込んだ際、孫桓に従って迎撃。 張苞と30余合渡り合うが、かなわず敗走する。翌日、孫桓を守るために張苞の前に立ちふさがり、ひと突きで討たれた。 |
| 脩允 | 男性 | 脩則の子。呉将。晋に奪われた交州を陶璜に従軍し取り返し、父の仇の毛?を捕らえた。 復讐にはやる脩允を陶璜は抑えたが、毛?が陶璜を襲撃しようと企てたのが発覚したため、毛?が殺害した。 |
| 周処 | 男性 | 呉の将。周魴の子。若い頃、乱暴狼藉を働き、村の者から猛獣、大蛇と共に三害と忌み嫌われた。 後に改心し学問に打ち込み、孫晧時代の末期は無難督に任じられた。呉滅亡後は晋に仕え、新平や広漢の太守として赴任。 後に中央に入ると外戚や寵臣を遠慮なく糾弾したため、恨みを買う。後に斉万年の討伐を命じられるが、怨恨から後詰を得られず、奮戦するも戦死した。 |
| 朱拠 | 男性 | 呉の武将。朱桓の同族。妻は孫魯育。孫権から呂蒙、張温の後継者として期待された。 孫権が帝位に即くと左将軍となって孫権の娘・孫魯育を娶り、後に驃騎将軍まで昇進した。 しかし、二宮の変に巻き込まれ自害した。 |
| 鍾離牧 | 男性 | 呉の武将。建安、鄱陽、新都三郡で山越族が起こした反乱を平定。 頭目だった黄乱、常倶らを屈服させて功績を上げた。 魏が蜀を滅ぼすと、武陵郡に太守として赴任し、魏と結託した五渓の異民族を制圧。その功績により公安の督となり、その後、濡須の督に転任した。 |
| 諸葛靚 | 男性 | 魏、呉の将。諸葛誕の末子。姉は司馬伷に嫁いでいる。ちなみに使える漢字に「靚」はない…。 諸葛誕は反乱を起こした際、呉から援軍を得るために呉綱に命じて諸葛靚を人質として送った。父の死後は、そのまま呉に残り官職を歴任。 孫皓が建業から荊州の武昌に遷都した際は、丁固と共に建業の守りに当たり、反乱を起こした施但を鎮圧した。 280年、晋の侵攻が始まると副軍師として参戦。張悌、沈瑩、孫震らと敵将の張喬を降したが、反乱を懸念して皆殺しを進言したが張悌に却下された。 その後、晋軍の攻勢で戦線が崩壊すると、張悌にも撤退するよう腕を引いたが、張悌の決死の覚悟を聞くと涙ながらに撤退した。 呉滅亡後は旧知であった司馬炎から侍中に推されるが固辞する。郷里に戻ると終生朝廷の方に向かって座ることはなかった。 |
| 沈瑩 | 男性 | 呉の武将。丹陽太守で、青巾兵と呼ばれる精鋭を率いた。 晋軍が来襲すると、張悌、諸葛靚、孫震と共に迎撃。版橋で張喬を包囲して降伏させた後、張翰(ちょうかん)、周浚と交戦。 三度攻勢をかけるが勝てず、後退したところを薛勝、蒋班、張喬に攻められ敗北。王渾に斬られた。 |
| 岑昏 | 男性 | 呉の中常侍(宦官)。孫皓の寵愛を受け、これをいさめた濮陽興、張布は孫皓の怒りを買って三族皆殺しとなった。 晋軍の侵攻が迫ると揚子江を鉄鎖で封鎖する策を進言する。しかし、鉄鎖は晋の王濬によって破られ、晋軍は揚子江を下って侵攻を開始。そ の後、呉の陣営では降伏する者が相次いだため、呉軍の衰退の原因は岑昏にあると上奏され、孫皓が止める間もなく群臣に殺された。 |
| 盛曼 | 男性 | 呉の将。蜀が滅びた直後の264年、陸抗、歩協、留平らと共に軍勢を率いて旧蜀領へ侵攻する。 しかし、巴東で羅憲を包囲するが胡烈が援軍に来たため撤退した。 |
| 薛瑩 | 男性 | 呉の官僚・薛綜の子。薛珝の弟。 孫休の代に散騎中常侍となるが一時、病気で辞職。孫皓の代に再び登用され、韋昭、華覈らと共に「呉書」の編纂に当たった。 陸凱が臨終の際、孫皓に送った書状で、楼玄、賀邵、張悌、滕脩、陸抗らと共に呉の根幹を担う臣と記されている。 呉が晋に降伏した時は、降伏文書を起草。晋に仕え、散騎常侍まで昇進した。 |
| 薛珝 | 男性 | 呉の官僚・薛綜の子。薛瑩の兄。 守大匠(建設大臣代行)となり、呉帝・孫皓から、清廟(孫皓の父・孫和を祀った廟)の正殿と奥殿の造営を命じられた。 269年、虞?、陶璜らと共に合浦から交趾に攻め込み、その帰途で病死した。 |
| 全紀 | 男性 | 呉の黄門侍郎。全尚の子。母は孫綝の従姉。 258年、呉帝・孫亮から、暴政を振るう孫綝を討伐するよう密命を受ける。 しかし、父の全尚が計画を妻(全紀の母)に漏らしたため孫綝に露呈し、家族ともども処刑された。 この事件で孫亮も帝位を廃された。 |
| 全尚 | 男性 | 呉の重臣。全?の族子。全紀の父。妻は孫峻の姉で、孫綝の従姉。娘が第2代皇帝・孫亮の皇后となる。 子の全紀が呉帝・孫亮から、暴政を振るう孫綝を討伐するよう命じられたことを妻に打ち明ける。 しかし、妻が孫綝に密告したため、計画が事前に発覚。 同じく孫綝討伐を命じられていた劉丞と共に、一族もろとも処刑された。 |
| 祖茂 | 男性 | 孫堅の武将。二刀流の使い手。 孫堅に従い、董卓討伐戦に参加。?水関の戦いで董卓軍の華雄から夜襲を受けた際、孫堅の頭巾を付けて身代わりとなり、華雄に斬られた。 |
| 孫異 | 男性 | 呉の武将。孫韶の子。 263年、蜀の諸葛瞻からの援軍要請を受け、丁奉、丁封らと共に救援に向かう。 しかし、蜀が魏に降伏したため引き上げた。その後、司馬昭の侵攻を警戒して、南徐の守備についた。 |
| 孫河 | 男性 | 呉の皇族の一人。孫桓の父。孫韶の叔父。 孫堅の族子であったが、俞家の養子となる。孫堅の挙兵に若くして従い腹心として重用され、参加した戦いでは常に先鋒を務めた。 孫堅死亡後、配下の諸将は袁術配下に吸収されるが、呂範と共に孫策に付き従い、旗揚げまでの不遇時代を支え続けた。 独立後は呉や会稽攻略へ従軍し、孫権の代には李術の討伐でも功績を挙げ出世し、廬江太守となる。 だが、孫翊が暗殺された時に巻き添えで殺された。子の孫桓が幼少であったため、彼の軍は甥の孫韶が引き継いだ。 |
| 孫和 | 男性 | 孫権の三男。孫登の弟。孫覇、孫休、孫亮の兄。孫皓の父。 幼少期は孫権に可愛がられ、闞沢から教育を受けた。孫登の死後、皇太子となる。 しかし、母の王氏と対立した全公主の告げ口によって、孫権から疎まれた。 更に弟の孫覇が孫権の寵愛を得たため後継者争いが勃発。孫和を擁護した陸遜、吾粲、顧譚、朱拠らが罰され、孫和は廃嫡、孫覇は自害を命じられた。 後に諸葛恪に担がれるとの噂が流れ、全公主と通じた孫峻に自害を命じられた。 |
| 孫歆 | 男性 | 呉の武将。孫堅の甥にあたる孫賁の孫。孫述、孫震の弟。驃騎将軍。 晋が呉討伐戦を起こすと、迎撃に当たる。夏口で杜預軍と交戦し、夜の間に長江を渡った周旨に斬り殺された。 |
| 孫皎 | 男性 | 孫静の三男。孫瑜の弟。孫権の従弟。 曹操軍が濡須に侵攻するたびに迎撃して食い止め、精鋭と評される。 程普、黄蓋、孫瑜らが死ぬと、後任となり兵を引き継いだ。関羽討伐戦では呂蒙と共に出陣し、荊州平定に大きく貢献している。 些細な理由で甘寧と喧嘩し、孫権に仲裁されたこともある。 |
| 孫皓 | 男性 | 孫和の子。孫権の孫。呉の最期の皇帝。 264年、第3代皇帝・孫休が死ぬと、万?、張布から推挙されて皇帝に即位。 宦官の岑昏を重用し、徐々に暴政を敷くようになる。相次ぐ年号の改元、土木工事の乱発などで国民、兵士の恨みを買う。 濮陽興、張布、万?、留平、楼玄ら重臣はこれを諌めたが次々と処刑した。演義では晋への侵攻を企て、反対した陸抗を降格させた。 279年、晋が呉討伐軍を起こし、翌年、建業まで攻め寄せられると群臣の勧めもあって劉禅に倣い降伏した。 |
| 孫秀 | 男性 | 呉の武将。孫権の弟の孫匡の孫。孫皓の代に、前将軍、夏口の督となる。 呉の皇族の中でも特に帝位に近く、大きな兵権を握っていたため、孫皓から警戒された。 270年、身の危険を感じ、妻や子飼いの兵士を連れて晋に亡命、驃騎将軍となる。 この厚遇ぶりから、以後、呉将の晋への亡命が相次いだ。呉の滅亡後、伏波将軍に降格するが、以後も重んじられた。 |
| 孫邵 | 男性 | 呉の初代丞相。孔融の功曹であったが、後に劉劉繇の下に身を寄せ、孫権が江東の主となると臣従。 様々な献策を行い、朝廷との交渉に際し献上物も送り、よく外交政策を提言した。 丞相就任は張昭ではと目されていたが、孫権の意向で丞相に任じられ、陽羨侯に封じられた。 |
| 孫紹 | 男性 | 呉の将。孫策の長子。 孫策が早世した際にはまだ幼少であり、先行きを案じた孫策は、跡継ぎとして次弟の孫権を選んだ。 孫権が即位すると、呉侯に封じられ、のちに上虞侯とした。 |
| 孫震 | 男性 | 呉の武将。孫堅の甥の孫賁の孫。孫述の弟。孫歆の兄。 無難の督となる。晋が呉討伐戦を起こすと、張悌、沈瑩、諸葛靚と共に迎撃に当たり、版橋で張喬を包囲して降伏させる。 しかし、張翰(ちょうかん)、周浚と交戦中に、沈瑩の部隊が薛勝、蒋班、張喬の攻撃を受けて壊滅したため、総崩れとなり敗北。捕らえられて王渾に斬られた。 |
| 孫覇 | 男性 | 孫権の四男。孫和の兄。妻は劉繇の孫娘。 二宮の変では、孫権から寵愛されたため重臣らを巻き込んで孫和と対立したが、最後は自殺を命じられた。 |
| 孫輔 | 男性 | 孫堅の甥。孫賁の弟。孫策・孫権の従兄。孫策の挙兵に従い、揚武校尉として江東の平定で孫策を補佐する。 丹陽・宣城・始安などの討伐では歴陽に駐屯し、袁術の介入を防御し、戦乱で離散した江東の民を集めて組織させた。 祖郎討伐では祖郎を捕え、劉勳討伐では先鋒として功績を上げ、廬江太守となる。 孫権の代に曹操に内通したと告発され、流罪となり幽閉されたまま死んだ。 曹操に通じたのは、孫権に江東を守り抜く力がないと判断したからといわれている。 |
| 孫瑜 | 男性 | 孫堅の弟の孫静の次男。孫権の従兄。孫皎の兄。 孫翊の死後、丹陽太守となり人望を集める。206年には周瑜と共に山越族の麻と保の砦を攻略。 曹操が濡須に進出すると、積極的に打って出ようとする孫権をいさめる。孫権が意見を聞かずに失敗すると奮威将軍となり九江、廬江の勢力拡大に貢献した。 他の諸将が軍務一点張りだった中、古典を愛好し、遠征の途中でも書物を読んだ。学者の馬普を礼遇し、部下に学ばせた。 |
| 孫亮 | 男性 | 孫権の七男。母は潘氏。孫登、孫和、孫覇、孫休の弟。呉の第2代皇帝。妻は全氏(全尚の娘)。孫和が皇太子を廃されると代わりに皇太子となる。 252年、孫権の没後、10歳で第2代皇帝に即位。聡明で知られていたが、政権は諸葛恪、孫峻、孫綝らに握られた。 258年、孫綝の暴政を憎んで、全紀、劉丞らと共に孫綝討伐を謀るが、全紀の父・全尚が妻(孫綝の従姉)に明かしてしまい計画が発覚。会稽王に落とされた。 孫休の代になると、復位を企てていると噂を立てられ、侯官侯に落とされる。任地に向かう途中に自害もしくは毒殺された。 |
| 譚雄 | 男性 | 呉の武将。関羽の仇討ちのため荊州に侵攻してきた劉備軍を、孫桓の指揮下で迎え撃った。 緒戦で同僚の李異が蜀の張苞に苦戦すると、張苞の馬を射て助けようとするが、李異は関興に斬られる。 翌日の戦いで関興に捕らえられた後、張苞に斬られ、張苞の乗馬の手向けとされた。 |
| 張温 | 男性 | 呉の官僚。劉基や顧雍の推挙があり孫権に招かれる。 孫権を始め群臣の評価は高く、孫登の教育係に就いたことあった。 劉備の死後、蜀と呉の同盟への返礼の使者として、蜀を訪れる。外交で蜀の士から高評を得、帰国後は蜀の政治を称えた。 これが孫権の気に障り、さまざまな理由をつけ左遷させられた。 |
| 張休 | 男性 | 呉の重臣・張昭の末子。張承の弟。諸葛恪、顧譚、陳表と共に孫登の学友となり、孫登に「漢書」を講義した。 兄の張承は別の侯に封じられていたため、張昭の死後、その爵位を受け継いだ。 孫登が若死にすると、中央に戻って侍中、揚武将軍に昇進。 しかし、孫和と孫覇の後継者争いに巻き込まれ、孫覇一味が流した悪評により交州への移住を命じられる。 その後、対立していた孫弘の謀略により自害を命じられた。 |
| 張儼 | 男性 | 呉の大鴻臚。魏に司馬昭の弔問の使者として訪れた。 賈充らから議論を吹っ掛けられたがすべて論駁した。また、何?、羊祜らと親交を結ぶも。帰国の途上で病死した。 |
| 張紘 | 男性 | 呉の幕僚。張昭と共に「江東の二張」と称された策士。 孫策が江東に進出する直前、周瑜の勧めで張昭と一緒に招かれた。 孫策が江東を制覇すると、成果を献帝に上奏するため許昌へ向かい、曹操と会見。しばらく曹操の元に仕えた。 帰国後は顧雍を推挙し、孫策の後を継いだ孫権を人材登用面で補佐した。臨終の際、秣陵に拠点を移すように遺言。孫権はこれに従い、秣陵を建業と改めた。 |
| 張悌 | 男性 | 呉の最後の丞相。若い頃、諸葛恪に取り立てられた。 晋の呉討伐軍が迫ると諸軍を迎撃に当たらせ、自らも沈瑩と諸葛靚を従えて出陣。 晋軍との兵力差を知って降伏を勧める諸葛靚に、「呉が滅びるのは周知の事実。誰も国難に殉じず降伏したとあっては示しがつかない」と決意を語る。 決戦の日、沈瑩と共に晋軍に突撃し、最後まで奮戦して斬り死にした。 |
| 張布 | 男性 | 呉の左将軍。孫休の側近。孫休が王の時からの臣で、孫休が皇帝になると特別な待遇を受けた。 孫綝討伐後、丞相の濮陽興と共に権勢を振るう。 孫皓が暴政を行うようになると孫皓を即位させたことを後悔し、その言動を密告され、誅殺された。 |
| 陳表 | 男性 | 呉の武将。陳武の妾腹の子。陳脩の弟。諸葛恪、顧譚、張休と共に皇太子・孫登の学友となる。 曁艶と親しく、官吏任用に失敗した曁艶が罪を得た時は1人だけ曁艶を非難しなかったため評価された。 陳武に倣い将軍になりたいと願い出、授けられた兵士を優遇したので心服される。 234年、諸葛恪と共に山越の討伐に当たり、その後の反乱鎮圧でも帰順を奨励して兵を得た。 34歳で死亡。財産は兵士を優遇するために使い切っており、妻子は孫登に保護された。 |
| 程秉 | 男性 | 呉の官僚。鄭玄の門人。 戦乱を避け交趾で士燮に仕えていたが、学者としての評判を聞いた孫権から孫登の教育係(太子太傅)を任された。 225年、孫登の婚礼のときには太常となり、孫登の妃を迎える役を務めた。孫権・孫登からも丁重に遇された。『論語弼』などの著作を三万字残した。 |
| 陶璜 | 男性 | 呉の将。陶濬の兄。薛珝らと共に交州へ進軍。 晋に奪われた交州を楊稷・毛?らと破り奪回した。交州で優れた統治を行ったため多くの民衆から慕われた。 呉が滅んでからは晋に所属。軍縮を進める司馬炎に反対し、南方の統治に任された。 三十年にわたり南方を威恩をもって治めたため、彼の死には多くの州民が涙した。 |
| 騰脩 | 男性 | 呉の官僚。孫皓の代に広州刺史となる。 279年、司空就任の直前に郭馬が反乱を起こし、広州牧として討伐に向かった。 まだ平定していないうちに晋軍が呉に攻め込んだので、滕脩は人数を率いて危難に駆けつけたが、 孫晧がすでに降服したと知り、喪服を着け、涙を流しながら引き返した。 降伏したのちは晋からは引き続き以前の職務と、南方の仕事を委任された。 |
| 陶濬 | 男性 | 呉の武将。陶璜の弟。徐陵の督。 279年、交州で郭馬が反乱を起こすと、討伐に赴いた。しかし、晋の大軍が呉に攻め寄せたため武昌から帰還。 2万の兵を率いて迎撃に当たろうとするが、出陣前に兵が逃亡したため、果たせなかった。 |
| 董朝 | 男性 | 呉の官僚。孫綝が孫亮を廃立して琅邪王・孫休を新皇帝とした際、孫楷と共に虎林まで孫休を迎えに行った。 孫皓の代には中書令兼司徒となる。丞相の陸凱が臨終の際に孫皓から派遣され、陸凱の遺言を聞き受けた。 |
| 馬忠 | 男性 | 呉の潘璋の部下。219年、呉が荊州に進攻した際、関羽父子を捕らえた。 その功績で、関羽の乗馬・赤兎馬を与えられるが、赤兎馬は何も食べなくなり、間もなく死ぬ。 222年、関羽の復讐のため劉備が荊州に進軍すると、迎撃に赴く。 緒戦で黄忠を撃退し、主将の潘璋を討った関興を追いつめるなど活躍するが、降将の糜芳と傅士仁に寝首をかかれ、関羽の霊前に供えられた。 |
| 万? | 男性 | 呉の官僚。烏程の役人だった頃、孫皓と親しくなる。 孫皓即位後は右丞相となり、巴丘を守備。 271年、孫皓が民衆に多大な犠牲を強いて各地を巡幸した際、丁奉、留平と都への帰還を相談。 孫皓の怒りを買い、毒酒を飲まされそうになって、自害した。 |
| 歩協 | 男性 | 呉の重臣・歩隲の子。歩闡の兄。歩隲の死後、爵位を継いで西陵都督となり、王昶、王基らの侵攻を防いだ。 蜀が魏に滅ぼされた後、264年に旧蜀領の巴東を攻撃するが、元蜀将の羅憲に敗れる。 その後、呉軍は陸抗、留平、盛曼らを援軍に出すが、魏からも胡烈が援軍に駆けつけ、攻略できずに撤退した。 |
| 濮陽興 | 男性 | 呉の丞相。孫権の代に会稽太守となり、当時、会稽にいた孫休と親交を結んだ。 孫休が即位すると、太常、衛将軍を経て、丞相に就任。孫休のもう1人の寵臣・張布と結託して政治を思いのままにした。 孫皓即位後、万?の謀略にかかり交州に流される途中、孫皓の命で殺された。 |
| 歩騭 | 男性 | 呉の丞相。歩練師は同族。 210年、交州刺史となり、蒼梧太守の呉巨を討伐。さらに、士燮を服従させ、呉の南方進出の足がかりを作った。 孫権即位後は驃騎将軍、西陵都督に就任。陸遜の死後、丞相となった。 |
| 歩闡 | 男性 | 呉の重臣・歩隲の子。歩協の弟。歩協の死後、西陵都督の座を受け継ぐ。 272年、孫皓から領地変更を通達されるが、父の代から受け継いだ任地から離れることを拒否。西陵に留まり、晋に降って交州牧に任ぜられた。 晋からは羊祜、楊肇らが援軍に駆けつけたが、呉から派遣された陸抗、左奕、吾彦、蔡貢らに敗北。 孤軍で西陵に籠城するが、力尽きて降伏し、一族もろとも皆殺しにされた。 |
| 孟宗 | 男性 | 呉の官僚。母親への孝行で有名で孟宗竹の語源となる。孫皓が即位すると字を避けて孟仁と改名した。 母親が亡くなると、勝手に任地を離れたら死罪という法を知りながら葬儀に駆けつけ、後に自首。 陸遜の弁護で、孫権から特例として許された。復帰後は孫綝らによる孫亮の廃位に加わっている。 光禄勲、御史大夫を経て、司空まで昇進した。 |
| 駱統 | 男性 | 孫権の武将。陳国の相・駱俊の子。 父が袁術に討たれ、母が華歆の側室になると、母と別れて会稽に戻った。 212年、会稽太守の孫権に登用され烏程の相となり、行き届いた統治を住民から称賛された。 凌統が死ぬと凌統配下の兵を指揮下に加える。 夷陵の戦いでは陸遜の指揮下で功績を上げ、偏将軍に就任。直後、濡須に攻め寄せた曹仁も破り、濡須の督となる。 |
| 李異 | 男性 | 呉の武将。金メッキの斧を使う。 219年、陸遜の指揮下で謝旌と共に荊州を攻め、?晏らを破り、陳鳳を捕らえた。 221年、荊州に攻め寄せた蜀の呉班、馮習に敗れる。翌年、陸遜が夷陵で蜀軍を大破すると、劉阿と共に南山まで追撃した。 |
| 陸胤 | 男性 | 呉の政治家、武将。陸凱の弟。陸遜の一族で子の世代に当たる。 孫和に礼遇されるが、二宮の変に巻き込まれ、孫覇の立太子工作を聞いた孫和に求められ、陸遜に上奏を依頼する。 これを聞いた孫覇派の楊竺は、陸胤を密告者として孫権に讒訴し、投獄された。 拷問を受けるが、孫和を守るために孫和の名を一度も口に出さずに耐え抜いた。 二宮の変後は衡陽督となり、交州で趙嫗の反乱が起きると交州刺史として乱を鎮圧する。 高涼の黄呉を投降させ、安南将軍として蒼梧の賊も平定した。 華覈が中央に召還するよう孫休に推薦したが、間もなく没した。 |
| 陸鬱生 | 女性 | 張温の弟・張白の妻。陸績の娘で、陸績が鬱林太守であった時に生まれた。 13歳で張白に嫁ぐも、三か月後もしないうちに夫に先立たれ、未亡人となる。 その後、たびたび有力者から再婚の勧めがあったが拒否し、生涯操を立てた。 |
| 陸景 | 男性 | 陸抗の二男。張昭の曾孫、諸葛瑾の孫にあたる。 父の死後、兄陸晏とともに後を継いで孫皓に仕え、公主を娶るなど重用された。 しかし、280年2月、晋が侵攻してきたとき、夷道・楽郷城の戦いで晋の将軍王濬らに敗れ、兄や虞忠とともに殺害された。 |
| 陸績 | 男性 | 呉の官僚。「呉の四姓」陸家の出。陸康の子。陸遜の又従兄弟。 6歳で袁術と対面した時、懐に蜜柑を入れたのをとがめられると、「母上に差し上げようと思ったのです」と言って袁術に感心される。 博学多識で天文、暦法、算術に通じ、「渾天図」を著す。 正しいと思うことを遠慮せずに発言したため、孫権に煙たがられ、鬱林太守に出向となった。 |
| 劉基 | 男性 | 劉繇の息子。呉の官僚。娘は孫覇の妻になっている。 父の死後、王朗の勧められた孫策から招かれ礼遇された。孫権からの扱いも同様で、幕府に招かれ官途に就いた。 孫権が酔った勢いで虞翻を殺害しようとすると懸命に諌めた。 孫権は反省し、酒を三度呑んだときの殺害命令は聞かないよう周囲に厳命したという。 以後も、船上で酒宴で雷雨に見舞われたときに孫権以外にただ一人だけ傘を許されるなど厚遇された。 |
| 劉丞 | 男性 | 呉の武将。呂拠と共に孫綝討伐を図った滕胤を攻め滅ぼした。 その後、丞相の孫綝が暴政を働くようになると、孫亮による孫綝殺害計画に参加する。 しかし、計画の途中で孫綝に知られ、孫綝の弟・孫恩に攻められ、死亡した。 |
| 楼玄 | 男性 | 呉の官僚。孫休の代に監農御史となり、孫皓の代には散騎中常侍、会稽太守、大司農を歴任する。 しかし、歯に衣着せぬ物言いと名声の高さを孫皓に恨まれた。 後に、賀斉の子・賀邵と共に孫皓の政治を非難したと密告され、息子の楼拠ともども交州に流される。 張奕の下で反乱鎮圧などに活躍するが、孫皓から殺害命令が出ていることを知り、自害した。 |
| 魯淑 | 男性 | 呉の武将。魯粛の子。濡須督・張承に見込まれ、後継者と目された。 孫休の代に武昌の督、孫皓の代には夏口の督となる。任地では常に厳正な統治を行った。 273年、薛瑩と共に10万と号する兵を率いて晋に出兵したが、弋陽の戦いで王渾に撃退された。翌年に死去し、子の魯睦が後を継いだ。 |
| 名前 | 性別 | 血縁、活躍、人物像など |
|---|---|---|
| 尹黙 | 男性 | 蜀漢の学者。『春秋』に通じた。劉備に帝位即位を勧めた文武百官の1人。 諸葛亮の第一次北伐の際に博士に任命され、内政にあたる。皇帝・劉禅の教育係も務めた。 |
| 殷観 | 男性 | 荊州主簿。 劉備が荊南の四郡を攻め取った後、孫権からの益州攻めの要請があると、理由をつけて断るよう進言し、孫権の遠征を中止させた。 |
| 王連 | 男性 | 劉璋、劉備に仕えた。 塩と鉄の専売により、国庫の収入を大幅に増加させると共に、有能な人物を属官として任用し、蜀郡太守・興業将軍に昇進した。 |
| 王伉 | 男性 | 蜀漢の臣。雍闓の反乱が平定された後、諸葛亮から「絶縁の地にあって忠誠を尽くすこと十数年」と称賛され、永昌太守に封ぜられた。 |
| 郭攸之 | 男性 | 蜀漢の臣。侍中。 北伐前に諸葛亮が上奏した「出師の表」では、董允、費と並び誠実純忠の人物であるとされ、宮中での諸件はすべて任された。 |
| 関銀屏 | 女性 | 三国志正史・演義、ほか民間伝承より。名は関三小姐とも。 関羽の3番目の娘。趙雲の弟子だったとあり、武芸を磨いていたと思われる。諸葛亮の南征に同行したらしい。 劉備が漢中王を名乗った頃、呉の孫権は、不和になっていた蜀と呉の関係改善のために、自分の息子と関羽の娘・関銀屏との縁談を持ち掛けた。 しかし、関羽が「虎の子を犬の子にやれるか!」と見下した返答と共に拒否したため、両国の関係は更に悪化した。 |
| 関統 | 男性 | 蜀漢の将。関興の子、関羽の孫。 父から漢寿亭侯の地位を受け継ぐ。公主を娶り虎賁中郎将となった。 |
| 関寧 | 男性 | 河北国境に住む関定の長男。関平の兄。 関平が武芸の稽古をしていたのに対し、学問に励んでいた。 |
| 諸葛喬 | 男性 | 呉の諸葛瑾の次男。諸葛恪の弟。 兄の諸葛恪と並んで評判が高く、才能では兄に及ばないが、性質では兄より優れていると評された。 まだ子が無かった諸葛亮から請われて養子となる。 227年、諸葛亮が北伐を起こすと漢中に同行し、霍弋と共に記室(丞相事務官)として各軍を視察して回った。 |
| 秦宓 | 男性 | 蜀の幕僚。劉璋に仕える。劉備の使者・簡雍が劉璋に降伏を勧告した際、無礼な態度をとがめた。 劉璋が降伏すると劉備に仕え、諸葛亮らと共に劉備が皇帝につくよう働きかける。 劉備が関羽の復讐戦に出陣しようとすると、打ち首覚悟で劉備をいさめ、投獄された。 劉禅の代、呉からの使者・張温と応対し、難題を出してやり込めようとする張温の問いにすべて答え、逆に論破した。 |
| 張裔 | 男性 | 蜀の政治家。劉璋に仕え、張飛が益州に侵攻すると徳陽で抗戦したが敗れる。 成都が包囲されると劉璋の投降を伝える使者となった。劉備のもとで司金中朗将となり、農具と武器の製造を司った。 雍闓の反乱に巻き込まれ、捕えられて呉に送られる。劉備死後の講和で?芝が呉に遣わされた際に返還が要求され、蜀に帰還する。 この際、孫権は返還を渋り、返還後も後悔して追いかけさせたほど未練があった。 参軍となって丞相府に入り、益州治中従事を務める。諸葛亮が北伐のために漢中に駐屯すると、留府長史として成都を治めた。 |
| 毛? | 男性 | 霍弋の部下。交趾奪回に攻めよせた呉将の劉俊・脩則を戦死させた。 その後、討伐に来た陶璜に敗れ、命を惜しまれ捕縛される。しかし、反乱を画策したため復讐に逸る脩允に斬られた。 |
| 楊稷 | 男性 | 蜀、晋の将。霍弋の部下。交趾太守として派遣され、毛?らと共に呉将の脩則・劉俊を撃破した。 また呉から陶璜らが派遣されると一度は破ったものの後に敗北し、呉への護送中に病死した。 |
| 李豊 | 男性 | 蜀の武将。李厳の子。 230年、李厳が曹真の軍勢を防ぐため漢中に出陣した時、父に代わって江州都督督軍の職を務める。 李厳が罷免された時、諸葛亮から「蒋琬と協力して職務に従事すれば道が開ける」と励まされた。朱提(しゅし)太守まで昇進。 |
| 劉璿 | 男性 | 劉禅の長男。劉?の兄。母は王氏。 238年、15歳で皇太子となる。264年、鍾会の反乱に巻き込まれ、死亡。 蜀降伏時に自害した劉?を除き、他の兄弟は劉禅と共に洛陽に移り住んだ。 |
| 廖立 | 男性 | 蜀の官僚。劉備が南荊州を支配すると、召し出されて長沙太守となる。 諸葛亮からは「龐統と並び、我が功業を補佐する者」と評された。 215年、呂蒙に長沙、零陵、桂陽を奪われると、脱出して成都に戻り、巴郡太守に就任。 劉備が漢中王になると侍中に任ぜられるが、劉禅の代には閑職に回された。 自尊心が高い性格だったこともあり、朝政を批判。庶民に落とされた。 |
| 呂凱 | 男性 | 蜀の官僚。南蛮攻略のため、軍略図「平蛮指掌図」を作る。 225年、孟獲が永昌郡に攻め入ると、太守の王伉を助けて籠城。 諸葛亮が来援した際、「平蛮指掌図」を渡し、南蛮征伐の道案内となる。孟獲降伏後、王伉と共に益州、越嶲、牂牁、永昌4郡を統治した。 |
| 名前 | 性別 | 血縁、活躍、人物像など |
|---|---|---|
| 王渾 | 男性 | 王昶の長男。太原出身。妻は鍾琰(鍾繇の曾孫)。呉討伐戦で張悌、沈瑩を斬り、王濬と功績を争う。 司徒まで昇り、一族も高職に就いた。匈奴の劉淵と親交があり司馬攸が彼を除こうと進言した際は弁護した。 |
| 王戎 | 男性 | 琅邪出身の王渾の子。鍾会の推薦で司馬懿に取り立てられた。 若い頃から文才に優れ、荀寓(荀?の孫)や杜黙らと親交があった。 また?艾の孫の?千秋を、光禄大夫の時に武帝へ推挙し、?艾の名誉回復にも尽力した。 河東太守、荊州刺史などを歴任。晋の恵帝の時に司徒となった。竹林の七賢の一人。 |
| 王濬 | 男性 | 陸抗の死後、呉討伐を奏上。妻は徐邈の娘。 279年に呉討伐戦が始まると龍驤将軍に任ぜられ、唐彬と共に益州から長江を下って侵攻。各地で呉軍を撃破し、王渾に先んじて呉主・孫皓を降した。 |
| 王浚 | 男性 | 太原の王氏で王沈の子。王渾とも親戚にあたる。 幽州を領し、鮮卑族と結び烏丸突騎を従え事実上の群雄に等しい一大勢力を築く。 八王の乱に介入し、後に石勒と争うが統治が乱れて人心を失い、石勒に殺害された。 |
| 何曾 | 男性 | 魏、晋の政治家。後継者に迷う司馬昭を説き、長男の司馬炎を指名させる。 司馬炎が晋王となると、丞相に任ぜられた。道義を重んじたが自分にはやや甘い性格だった。 |
| 郭槐 | 女性 | 賈充の後妻。郭淮の弟・郭配の娘。賈黎民、賈南風、賈午らの生母。前妻の李氏(李豊の娘)が離縁されると後妻に迎えられた。 嫉妬深い性格で、賈充と息子の乳母が密通してると疑い、乳母を鞭で撃ち殺した。 そうしたことが原因で、幼い長男と次男を相次いで亡くし、賈充は後継ぎが絶えた。 後に、大赦があり李氏との復縁の話が持ち上がったが、賈充の胸倉を掴んで激しく抗議したため、賈充は恐れて取りやめた。 また賈充の死後、(異姓養子は礼に反したが)外孫の韓謐を賈黎民の養子にして家を継がせた。 |
| 嵇康 | 男性 | 竹林の七賢の一人。老荘を好み、礼教に批判的な言辞を多く残している。 詩と琴に優れた。友人を弁護した際、鍾会の讒言もあってか司馬昭に処刑された。 |
| 阮咸 | 男性 | 阮籍の従子。竹林の七賢の一人。琵琶の達人で後世、琵琶のことを阮咸と呼ぶようになった。 阮籍と同じく酒好きで、形式的な礼法に拘らなかったため、当時の儒士からは非難された。 |
| 阮籍 | 男性 | 阮瑀の子。竹林の七賢の主導的人物。 酒好きと奇行で有名で、老荘に傾倒し形式的礼法を嫌った。白眼視の語源となる逸話をもつ。 |
| 索靖 | 男性 | 敦煌の名家の出身で、傅玄や張華に才能を認められ、武帝に重用された。 涼州方面など各地の地方官を歴任し、八王の乱では趙王司馬倫の討伐に功があった。 後に河間王司馬顒に属し兵を率いて賊徒を討伐したが、その時の戦傷が元で死去した。 草書にも優れ、衛瓘と並び称された。 |
| 山濤 | 男性 | 魏から西晋の文人。張春華とは遠縁にあたる。竹林の七賢の一人。 老荘思想に耽り嵆康、阮籍らと交遊した。四十代で出仕し司馬氏に属したため、嵆康を推挙した際、「山巨源に与える絶交書」を突きつけられた。 曹爽の台頭で隠棲するが、司馬懿の決起の後再び出仕し、司馬昭が鍾会の謀反鎮圧のため洛陽を離れると、鄴の警護に当たり、皇族を監視した。 西晋代には栄達し、司徒にまで登った。また、鍾会の讒言で殺された、嵆康の遺児の嵆紹らを推挙している。 |
| 司馬駿 | 男性 | 司馬懿の子。司馬伷の弟。驃騎将軍、扶風王。 各地の軍司令官を歴任し、任地では農政にも成果を挙げた。 対呉戦線では丁奉の侵攻を撃退し、文俶(文鴦)らを指揮して異民族討伐の大功を立てた。 人格にも優れていたが、司馬攸の左遷を諫めるも武帝に容れられず病を得て死去した。 |
| 司馬伷 | 男性 | 司馬懿の六男。司馬師、司馬昭の弟。妻は諸葛誕の娘。 晋の司馬炎の代に、鎮東大将軍、琅邪王(ろうやおう)に封ぜられる。 279年の呉討伐戦に参加し、先に孫皓を降伏させた王濬の軍と合流して、成功を喜びあった。 |
| 司馬衷 | 男性 | 晋の第2代皇帝。司馬炎の次男。 生まれつき暗愚であった為、外戚の楊一族や賈南風らが権勢を握られ、八王の乱などの混乱を招いた。 民衆が穀物がなくて飢えている時に、「(穀物がないのならば)肉粥を食べればいいではないか(何不食肉糜)」と言ったと伝えられている。 |
| 司馬攸 | 男性 | 司馬昭の次男。司馬炎の弟。伯父の司馬師に子がなかったため、養嗣子となる。 武勇に優れ、温厚な性格だったため司馬昭の寵愛を受けた。 司馬炎の即位後、馮紞らの讒言から中央から遠ざけられ、斉王に封ぜられた。 |
| 司馬亮 | 男性 | 司馬懿の四子。大司馬、汝南王。 魏王朝の後期から各地の要職を務めたが、諸葛誕や異民族の討伐に際して不手際があり免官、降格されたこともあった。 晋王朝では帝室の元老として重用されたが、司馬炎の没後に賈皇后にそそのかされた楚王司馬瑋に殺害された。 「八王の乱」に関連する諸王の内で最初にリタイアした人物。 |
| 司馬倫 | 男性 | 司馬懿の九子。相国、趙王。 帝室の一員として晋王朝で高位に昇ったが、才能に乏しくしばしば弾劾された。 八王の乱において賈皇后を廃するが、張華や裴頠といった有能な人物まで殺害してしまう。 一時的に恵帝を廃して帝位を僭称するが、斉王司馬冏(攸の子)、成都王司馬穎、河間王司馬顒らに敗れて殺害された。 |
| 周旨 | 男性 | 晋の将。晋が呉討伐戦を起こすと、杜預の指揮下で参戦。 江陵の戦いでは水軍8百を率いて巴山に伏兵し、杜預に敗れて落ち延びてきた孫歆を討ち取った。 続いて迎撃してきた張悌、沈瑩、諸葛靚の軍とも戦い、乱戦の中、沈瑩を討ち取って晋軍の勝利に貢献した。 |
| 周浚 | 男性 | 晋の将。王渾の下で呉討伐戦に参戦し、主力である呉の丞相・張悌らを打倒。 王渾に王濬に先んじて建業への進軍を勧めるも採用されなかった。 呉平定の功績により成武侯、食邑六千戸、絹六千匹を賜った。 翌年に、秣陵に移ったが、威光と恩徳ある政治をしたため、呉の人から喜ばれた。 |
| 荀? | 男性 | 魏の尚書。荀?の第4子。陳泰の舅。司馬懿に評価され、「荀?の子だけのことはある」と言わしめた。 毌丘倹討伐の功で司空となる。晋建国の功臣として侍中、太尉と昇進し、臨淮公に封ぜられた。 博学多識で三礼、朝廷の儀礼に通じていた。何曾と並んで仁と孝を尽くした者として称賛されている。 |
| 徐胤 | 男性 | 晋の官僚、武将。荊州に赴任した羊祜の軍監。 羊祜が軽装で夜外出しようとすると門前に立ち塞がり、重役の身を尊重するようにと叱った。 羊祜は陳謝し、外出を控えるようになったという。 西陵の戦いまでの間に巴東監軍に移っており、水軍を率いて建平に進軍した。 |
| 張華 | 男性 | 晋の官僚。杜預と同じく呉征伐の賛成派で賈充、荀勗らとは対立していた。 陸兄弟、陳寿らを推挙した。名書家として有名。また、博学多才で「博物志」を著している。 恵帝の時に侍中、司空などを歴任したが八王の乱で趙王・司馬倫に殺された。 |
| 鄭沖 | 男性 | 魏、晋の官僚。貧しい家の出身だったが曹丕に見いだされ仕えた。 魏では三公を歴任。晋でも太傅に就く。曹髦の養育係。 司馬昭は蜀平定後に賈充・羊祜に礼儀・律令を定めることを命じたが皆、まず鄭沖に相談して、その後に施行された。 司馬炎の信任厚く、寿命の前年まで引退を認められなかった。 |
| 唐彬 | 男性 | 晋の武将。晋の広武将軍。 279年、晋が呉討伐戦を起こすと、王濬と共に水陸20余万の兵を率い、旧蜀領から長江沿いに進軍した。 呉討伐の前後も各地で功績をあげ、兵を用いずして敵の心を攻める優れた名将と評された。 |
| 杜預 | 男性 | 晋の武将。杜畿の孫、杜恕の子。司馬懿の女婿。 父の杜恕が司馬懿と対立したため、政界への参加は遅かった。鍾会の蜀討伐戦に副官として参戦。 馬術、武術は不得手であった。羊祜の遺言で鎮南大将軍、都督荊州諸軍事に任ぜられる。 279年、呉討伐軍を指揮し、江陵、武昌を連破。呉を降伏させた。 その際、慎重論を唱える胡奮に「竹を割るような勢いで進軍すれば、呉は戦わずに降伏する」と諭したことが「破竹の勢い」の語源となる。 「春秋左氏伝」を愛読し、「左伝癖」と自称した。 |
| 馮紞 | 男性 | 晋の政治家。李孚の孫かも。 羊祜の呉侵攻に反対。荀勗と共に讒言を盛んに行ったことから、司馬昭の三男・司馬攸から平素から嫌われていた。 そのため、司馬攸が皇帝につかないように司馬炎に讒言。 司馬攸を大司馬・都督青州諸軍事に任命し、外地に出させることに成功した。太康年間に死去した。 |
| 羊徽瑜 | 女性 | 司馬師の正室。羊祜の姉。司馬師が夏侯徽を毒殺、呉氏(呉質の娘)を離縁したため、三人目の正室となる。 晋書ではその人となりを「聡明で才能があった」とのみ記されている。 司馬炎が即位すると司馬一族への追号が行われたが、司馬一族で疎まれていた夏侯徽のみ除かれていた。 そのため夫の前妻であった夏侯徽の名誉回復を武帝司馬炎に働きかけた。 |
| 羊祜 | 男性 | 晋の武将。姉は司馬師の妻。妻は夏侯覇の娘。蔡邕の外孫。蔡琰の甥にあたる。 孝行で知られ、長年仕官を断っていたが司馬昭に請われ出仕する。司馬炎が皇帝となる時、王沈・荀勗・裴秀・賈充とともに中心的役割を果たした。 後に荊州に駐屯し、善政を敷いて領民からも慕われた。272年、晋に投降した歩闡を救うため西陵を救援したが、陸抗に敗れ撤退した。 呉討伐のため、王濬に軍船の建造を命令。病が篤くなると後継に杜預を指名。建造された船は呉を討伐した際に使用された。 |
| 楊肇 | 男性 | 晋の武将。荊州刺史。 272年、呉の歩闡が晋に降伏すると、羊祜と共に歩闡が治める西陵の救援に向かう。 しかし、呉から派遣された陸抗が堤防を決壊させて羊祜の進軍を阻んだため、単独で呉軍と戦うことになる。 劣勢のまま数ヶ月対陣した後、夜陰に乗じて退却を指示。察知した陸抗の夜襲を受け、大敗を喫した。 |
| 李氏 | 女性 | 魏の李豊の娘。賈充の妻。娘に賈褒、賈裕。父の李豊が司馬師に処刑されると罪に連座し流罪となった。 司馬炎が即位すると大赦があり、賈充の元に戻ったが後妻の郭槐の反対で復縁はならず別居することとなった。 娘の賈褒は司馬攸の妃となり尊貴な身となったが、妹の賈裕とともに再三賈充に復縁を嘆願したが聞き入れられなかった。 郭槐は以前から李氏の命を狙っていたが、(別居中の)賈充の家を訪れた際に、出迎えで李氏が出てくると思わず膝がくずれ礼拝してしまったという。 李氏の死後、賈充との合葬は(郭槐の娘の)賈南風に阻まれていたが、賈南風が廃されると合葬が許された。 |
| 劉弘 | 男性 | 晋の武将。車騎将軍、荊州刺史。劉靖の子で劉馥の孫。 父と同じく幽州で治績を挙げ、後に荊州に転ずる。張昌の乱を鎮圧し、襄陽を拠点に各地の治安を回復した。 統治能力にも長け、各地で晋王朝の統制が失われる中で荊州をよく保った。 |
| 劉頌 | 男性 | 漢王朝の一族で、司馬昭の求めに応じて出仕する。 晋王朝では実務に優れた文官として幅広く活躍し、尚書にまで昇った。 八王の乱で殺害された張華を悼み、趙王司馬倫の専横に抗したため一党から怨まれたが、名声が高かったため粛清は免れた。 |
| 劉寔 | 男性 | 魏、晋の官僚。若い頃は貧乏だったが、学問を修めて計吏となり、河南尹丞となった。 その後、相国軍事として司馬昭のもとに仕え、杜預が呉を滅亡させると鎮南軍司を務めた。 顕位に上っても、質素な生活をおくって華美をきらい、学問に励んで飽きなかったという。 演義では、?艾と鍾会は「蜀を滅ぼせるが生きては帰還できない」と予言した。 |
| 名前 | 性別 | 血縁、活躍、人物像など |
|---|---|---|
| 于毒 | 男性 | 黒山系の独立勢力。眭固や白繞とともに10余万の大軍を率いて挙兵し、曹操、袁紹らと争うも最後は滅ぼされた。 |
| 衛茲 | 男性 | 張邈の武将。曹操の挙兵を助け、徐栄との戦いで戦死した。曹操は彼の死を惜しみ祭祀を絶やさなかったという。 |
| 袁遺 | 男性 | 袁紹らの従兄。優れた学者であった。後漢の山陽太守。 反董卓同盟に第八鎮として参加する。虎牢関の戦いに従軍し、呂布に敗れた王匡を救援した。 |
| 袁隗 | 男性 | 袁紹、袁術らの叔父。妻は馬融の娘。三公にたびたび就任した。反董卓連合が結成されると董卓に殺害された。 |
| 袁夫人 | 女性 | 袁術の娘。袁術の死後は他の妻子と共に劉勲の下に身を寄せるが、劉勲を破った孫策に保護され、その後孫権の側室となる。 練師(歩夫人)の死後に皇后に推されるが、これを辞退している。のち、潘夫人の讒言が元で孫権に殺された。 |
| 王叡 | 男性 | 王祥の叔父。荊州刺史。反董卓連合の折、不仲の曹寅を殺そうとするも、逆に計られ孫堅に攻められ自害した。 |
| 王越 | 男性 | 霊帝の時の虎賁中郎将。剣術の名人で、都で名声が高かった。曹丕の剣術の師匠・史阿の師匠。 |
| 王匡 | 男性 | 後漢の河内太守。何進に召され強弩兵を連れて洛陽に向かうが、何進が死んだため郷里に戻った。 董卓との戦では返り討ちに遭う。後に胡母班、曹操に攻め殺された。 |
| 王建 | 男性 | 公孫淵の燕国の相国。 司馬懿の攻勢に降伏の使者となったが、司馬懿はそれを許さず、捕縛され斬首された。司馬懿の檄文では老いぼれと罵られた。 |
| 王美人 | 女性 | 霊帝の側室。劉協の生母。美人は官位名。容姿に優れ、聡明で書や算術に通じた。 何氏が皇后に立てられた年に子を懐妊したが、何皇后は立場を追われることを恐れて薬で胎児を殺そうとした。 しかし効果は無く、子の劉協が生まれたために何皇后によって毒殺された。 これに激怒した霊帝は何皇后を廃そうとしたが宦官に止められた。霊帝は王美人の徳を偲んで詩を作り、また儀式を行い顕彰した。 |
| 王門 | 男性 | 公孫瓉の武将で、後に袁紹に降った武将。 一万で公孫瓉領に攻め入ったが、田豫に裏切りを責められ軍を引いた。 |
| 王累 | 男性 | 劉璋の臣。城門に逆さづりになり、劉璋に劉備の起用を命を以って諌めたが容れられなかった。そこで首を切って自害した。 演義でも逆さづりになって諌めたが、聞き入れられなかったため縄を切って自害した。 |
| 蓋勳 | 男性 | 後漢の臣。主に涼州方面で軍事・政務において活躍した。 直言を厭わぬ硬骨漢で霊帝から寵愛され、董卓からは恐れられた。 |
| 郭援 | 男性 | 袁尚の武将。鍾繇の甥。袁尚から河東太守に任ぜられる。 高幹と共に曹操軍の平陽攻略を図るが、汾水を渡りきらないうちに鍾繇と馬超に攻められ、龐徳に斬られた。 |
| 何苗 | 男性 | 何進の義理の弟。車騎将軍まで昇進した。 霊帝崩御後は義兄と対立していたため、何進の遺臣・呉匡ら何進暗殺の罪を着せられに殺害された。 |
| 関純 | 男性 | 正史では閔純。韓馥の別駕。韓馥が袁紹を招くことに反対し、耿武とともに袁紹殺害を謀ったが文醜に斬られた。 |
| 管承 | 男性 | 長広郡で活動した海賊。袁譚から官位を受け、郡内で暴れまわった。 一時降伏するも、後に叛いたのか曹操からたびたび征伐を受け、張郃に討伐させた。 |
| 管寧 | 男性 | 後漢の名士。華歆、邴原とは学友。 戦乱を避け遼東に移ると、その徳の高さから公孫度の一族から代々尊重された。 後に帰郷するが招聘は全て断り生涯を終えた。 |
| 韓馥 | 男性 | 後漢の冀州刺史。袁紹と共に劉虞を皇帝に即けようと画策した。 公孫瓚が勢力を拡大すると、自発的に袁紹に地位を譲る。 後に袁紹に不安を覚えて張邈の下に逃亡したが、疑心暗鬼となり自害した。 |
| 韓筥子 | 男性 | 袁紹の武将。官渡の戦いで、眭元進、呂威璜、趙叡らと共に淳于瓊に従って兵糧基地のある烏巣(うそう)を守る。 しかし、曹操の夜襲を受け、兵糧を焼き払われた。 |
| 魏越 | 男性 | 呂布の武将。呂布が袁紹と共に常山で張燕と戦った際は、 呂布と共に、僅か数十騎で1日に3・4回も張燕の本陣に突撃を行い、十日ほどで張燕軍を大破した。 |
| 吉本 | 男性 | 後漢の太医令。吉平とも。 218年、息子達や金禕・耿紀・韋晃とともに曹操の留守に反乱を起こした。 しかし、許昌を守る王必を討てず、逆に討伐された。 |
| 魏攸 | 男性 | 後漢の臣。幽州牧・劉虞に従軍する。 袁紹に敗れた公孫瓚を劉虞が討伐をいさめた。 その1年後に魏攸は病死し、劉虞は公孫瓚討伐の軍を起こすが、返り討ちにあった。 |
| 丘力居 | 男性 | 烏丸族の大人。遼西郡を支配した幽州や青州に何度も侵入した。 劉虞が赴任すると、公孫瓉の妨害もあったが恭順の意を示した。 |
| 季雍 | 男性 | 袁紹の武将。公孫瓚に降伏し、袁紹軍の朱霊に攻められる。 朱霊の家族を人質とした公孫瓚の援軍を得るが、家族の命を犠牲にする覚悟を決めた朱霊の攻撃を受け、生け捕られた。 |
| 橋玄 | 男性 | 後漢の政治家。演義では大喬、小喬らの父。 法に厳しく、厳格な人物で自分の息子が人質にとられても賊の討伐を優先させた。若き日の曹操を初めて評価した人物。 |
| 姜叙 | 男性 | 涼州刺史・韋康の部下。馬超に仕方なく従っていたが、母の檄もあって楊阜らとともに馬超に反旗を翻した。 結果、馬超を敗走させることに成功した。 |
| 橋瑁 | 男性 | 橋玄の甥。後漢の東郡太守。軍を率いて反董卓同盟に参加する。 同盟決裂後、劉岱から兵糧借用の依頼を受けるが、これを断ったために殺された。 |
| 金禕 | 男性 | 後漢の臣。武陵太守・金旋の子。 韋晃、耿紀らと共に王必を討って献帝を奪い、曹操を討伐する計画に参加。 218年の正月に謀反を決行するも王必に逃げられ、討伐を受け戦死した。 |
| 金旋 | 男性 | 後漢の武陵太守。金禕の父。 漢陽太守を務めた後、一度都に戻り、中郎将に昇進して武陵太守を兼任した。 演義では出陣したところを配下の鞏志の裏切りにあい死亡した。 |
| 蹇硯 | 男性 | 後漢の宦官。洛陽の北部尉をしていた曹操に、叔父が禁令を犯して夜間外出をしたため、捕らえられて棒で殴り殺された事がある。 霊帝に寵愛され、西園八校尉が置かれた時、その筆頭として近衛軍を統括した。 後に霊帝の意を受け、劉協擁立を進めるも何進に殺害された。 |
| 黄琬 | 男性 | 後漢の政治家。 その名声から董卓に召しだされ三公に任じられたが、長安遷都に反対し免官された。 李傕らが長安を落とすと牢に入れられ処刑された。 |
| 黄承彦 | 男性 | 後漢の名士。黄月英の父。諸葛亮の舅。 嫁を探していた諸葛亮に、「私に醜い娘がいる。赤毛で色黒だが才能は君とお似合いだ」と勧める。 諸葛亮が承知すると、娘を車に乗せて送り届けた。 演義では、夷陵の戦いの追撃戦で、諸葛亮が魚腹浦に仕掛けた石兵八陣に陸遜が迷い込むと、陸遜を惜しんで救出した。 |
| 康僧会 | 男性 | 康居出身の訳経僧。商人の父に従い交趾に移住した。十代で両親を失ったため出家して仏典を学んだ。 呉の赤烏十年に寺を建ててもらうために建業を訪れたが、呉の人々は初めて見る僧形に驚いたという。 面会した孫権が仏教の霊験を試させたところ、康僧会は三十七日の祈祷の末に五色の光を放つ仏舍利を出現させた。 このことから孫権の支持を得て、江南地方で最初の仏教寺院、建初寺が建立された。また後年、法令苛虐な孫皓を改心させたという逸話が残る。 |
| 公孫恭 | 男性 | 公孫度の子。公孫康の弟。 公孫康に袁煕らを殺して首を曹操へ届けるよう進言した。 兄の死後爵位を継いで、車騎将軍に任ぜられるがのちに甥の公孫淵に位を奪われた |
| 公孫康 | 男性 | 公孫度の子。204年、楽浪郡18城の南半分である屯有県以南を裂いて帯方郡を設置し、勢力を拡大した。 後に、曹操軍に敗れて逃げてきた袁煕、袁尚兄弟を斬り、首を曹操のもとへ届けた。 その功で曹操から襄平侯・左将軍の位を授かった。 |
| 公孫度 | 男性 | 武威将軍。遼東太守。烏丸討伐に功績があった。 董卓と諸侯の争いで中原が荒廃すると、同郷の徐栄の推挙により遼東太守に就く。 有力豪族らを滅ぼし、権力を拡大させ公孫氏による支配を確立。遼東侯、平州牧を自称した。 中原の戦乱をよそに独立状態を保った。 |
| 孔伷 | 男性 | 後漢の予州刺史。軍を率いて反董卓同盟に参加する。 人物批評や清談高論は得意だったが、軍の指揮官としては無能だったという。 |
| 耿武 | 男性 | 韓馥配下の長史。袁紹を招こうとする主人を諌め、関純とともに袁紹の暗殺を謀ったが、顔良に斬り殺された。 |
| 呉巨 | 男性 | 劉表の武将。蒼梧太守。交州刺史。 劉備とは旧知の仲で、曹操の荊州侵攻時は避難先として挙げられた。 孫権が派遣した交州刺史・歩隲に、不服従を理由に斬られた |
| 呉匡 | 男性 | 後漢の軍人。呉班の父。呉懿の従父。何進の忠実な武将として活躍した。 189年、何進が宦官誅殺を計画して逆に殺害された時、同僚の袁紹らに唆されて、 義理の弟の何苗が宦官と内通して何進を殺害したと疑いを懐き、董旻らと兵を率いて朱雀門で惨殺した。 |
| 蔡和 | 男性 | 蔡瑁の従弟。蔡中とは兄弟。 赤壁の戦いを前に蔡瑁が曹操に処刑された後、名誉挽回を期して偽って孫権軍に投降する。 黄蓋が棒刑を受けた様を曹操に知らせたため、曹操は黄蓋の偽りの降伏を信じた。赤壁の戦いが始まると周瑜の前に連行され、斬られた。 |
| 蔡中 | 男性 | 蔡瑁の従弟。蔡和とは兄弟。 蔡和とほぼ行動を共にしたが、赤壁の戦いが始まると周瑜の策で甘寧を曹操の陣まで手引きしたところを、斬られた。 |
| 左慈 | 男性 | 方士。道号は烏角先生。峨嵋で修業し、「遁甲天書」を得る。 曹操の宴会の席に現われて、様々な幻術を披露した。曹操を翻弄し、悠々と去っていったという |
| 士壱 | 男性 | 士燮の弟。 後漢朝廷に仕えていたが、董卓が実権を握ると黄琬とともに反抗的な態度を取ったため免官。兄の治める交州に逃れ、合浦太守を勤めた。 甥の士徽の呉への反乱では子の士匡が呉に味方していたため、命だけは許されたものの、士壱も官職を剥奪された。 しかし後に、士壱も法を犯したという名目の下で、処刑されてしまった。 |
| 士徽 | 男性 | 士燮の子。士祗の弟。父の死後、交趾太守を自称し呉と敵対する。後に呂岱に降伏するも斬られた。 |
| 士匡 | 男性 | 士壱の子。士徽は従兄弟。仲の良かった呂岱の命で、反乱を起こした士徽に降伏を勧めた。 しかし、呂岱は約束を破り、士徽一族を皆殺しにされ、死罪は免れたものの庶民に落とされた。 |
| 紫虚上人 | 男性 | 益州の錦屏山の隠者。 劉備の侵攻に悩む劉璝らが占いを請うと、暗に龐統の死と、諸葛亮の益州平定を予言した。 しかし、劉璝らは理解できず戦死した。 |
| 支謙 | 男性 | 月氏出身の訳経僧。漢末に来訪し、支亮に師事して経典を学び、六か国語に精通した。 後に南方に避難すると孫権に才を評価され、博士(役職)に就き孫登の教育係となった。 支謙は色黒の長身で痩せており瞳は黄色であったため、当時の人からは「支郎は黄眼、痩躯といえども知恵袋」と称された。 呉の黄武〜建興年間に『維摩経』など四十九の経典を訳し、また『無量寿』などをもとに梵唄を創作して布教に貢献した。 |
| 士祗 | 男性 | 士燮の長男。士徽の反乱に参加したが、士匡の勧めで降伏した。しかし、許されず呂岱に斬られた。 |
| 士燮 | 男性 | 後漢末から三国時代の群雄。交州の交趾太守として権勢を揮い、海上交易で莫大な利益を上げた。 後漢が衰退し辺境への影響力を失うと、地元勢力を取り込み、実質的に独立を果たす。 中央から隔絶された土地柄、そして彼自身の人柄により、疎開した中央の人士は後を絶たなかったという。 後、荊南を呉が支配すると呉に帰順し、多くの貢物で呉の警戒心を和らげた。 90歳で天寿を全うするまで、呉は交州支配を果たせなかった。 |
| 士孫瑞 | 男性 | 後漢の僕射。王允の董卓暗殺計画に参加する。蔡邕を投獄した王允に助命を嘆願した。 献帝が長安から脱出した際に、李傕らの追撃に遭い死亡した。 |
| 司馬徽 | 男性 | 学者。道号は水鏡先生。襄陽の名士であり、諸葛亮、龐統、徐庶らの学問の師。 蔡瑁の暗殺計画から逃れた劉備を自宅に泊め、臥龍・鳳雛の存在を教えた |
| 周昴 | 男性 | 袁紹の武将。周?の弟。 袁紹の命を受け、陽城(袁術の指示で董卓と戦っていた孫堅の拠点)を攻め落とす。 袁術が孫堅と公孫越を派遣して反撃してくると、迎え撃って公孫越を討った。 後に九江太守となるが、袁術軍の孫賁(そんほん)に攻められ、陰陵で敗れた。 |
| 荀爽 | 男性 | 荀?の叔父。荀勗の曽祖父。兄弟は皆優秀で荀氏の八龍と呼ばれた。 党錮の禁が解けた後、大将軍何進の従事中郎となり、更に侍中とされた。黄巾の乱では豫州刺史の王允に仕え、孔融と共に黄巾軍を撃破した。 その声望を見込んだ董卓に無理矢理召し出され、無位無官から三月余で三公にまで上った。 後に王允らと董卓暗殺の計画を練るが途中で病死した。 |
| 昌豨 | 男性 | 後漢末の将、群雄。 臧覇ら泰山付近で活動した軍閥の一人で、呂布が死ぬと曹操に降伏した。 劉備の独立時や、冀州平定後になどに反乱を起こし、夏侯淵、張遼、于禁ら曹操軍をてこずらせた。 最終的に昌豨は于禁の旧友だったこともあり降伏したが、法を厳守する于禁は許さずに涙ながらに処断した。 |
| 蒋義渠 | 男性 | 袁紹の武将。官渡の戦いで袁紹が曹操に敗れた後、敗走する袁紹を黎陽に迎え入れた。 袁紹から官渡の戦いの状況を聞くと、散り散りになった敗残兵を呼び集め、袁紹軍に官渡の戦い以前の威勢を取り戻させた。 |
| 支婁迦讖 | 男性 | 月支出身の訳経僧。月支族の者は士姓を名乗る慣例があった。婁迦讖はローカクシェーマの意。支讖とも。支亮の師。 桓帝の時代に洛陽に訪れ、霊帝期の光和・中平年間(178〜189)に初めて大乗経典の『道行般若経』等を漢訳した。 |
| 秦宜禄 | 男性 | 呂布配下の将。秦朗の父。妻は杜氏。 曹操が下邳を包囲した際に袁術に救援の使者として向かうが、袁術により漢王朝の一族の娘と結婚させられた。 秦宜禄は呂布が滅亡すると曹操に降っていたが(この時、杜氏は曹操の妾となっていた)、劉備が小沛で叛旗を翻すと、 張飛が訪れ「妻を奪い取った男に仕えるのは愚かしいことだ。私について来い」と勧誘し、秦も最初は受諾した。 しかし、後悔して張飛に帰りたいと願い出、怒った張飛に殺されてしまった。 |
| 眭元進 | 男性 | 袁紹の武将。官渡の戦いに参加。 淳于瓊の指揮の下で、韓莒子、呂威璜、趙叡らと共に烏巣(うそう)の兵糧基地を守っていた。 趙叡と兵糧を調達した直後、曹操軍の兵糧庫夜襲を知る。火の手が上がる中、曹操軍と戦ったが敗れ、戦死した。 |
| 眭固 | 男性 | 張楊の武将。もと黒山の賊。 191年、同じ黒山賊の于毒、白繞らと共に魏郡を攻略するが、翌年、曹操に敗退した。 199年に楊醜を討った後、旧張楊軍を率いて袁紹に味方し、射犬に駐屯。 巫女に「字が兎なのに、犬の名の土地にいるのは不吉」と言われたが、聞き入れなかった。 その後、犬城で史渙、曹仁、于禁、徐晃らと戦い、敗死した。 |
| 鄒氏 | 女性 | 張済の妻。張繍の叔母。夫の張済が南陽攻撃中に死亡すると、甥の張繍の下に身を寄せた。 197年、張繍が曹操に降伏した際、南陽に進駐した曹操に見初められた。 以後、曹操は鄒氏の屋敷に入り浸りになり、激怒した張繍は曹操を攻撃。曹操を守った典韋や曹昂はここで落命した。 |
| 鄒靖 | 男性 | 後漢の武将。黄巾の乱に際し、幽州太守・劉焉に義勇軍を募って討伐するよう提案して採用される。 その後、応募してきた劉備、関羽、張飛らを率いて青州の黄巾賊を打ち破った。劉備らが盧植の援護に向かうと、別行動を取った。 |
| 石徳林 | 男性 | 別名を寒貧。若い頃、長安で学者について学んだ。 特に「方術」に興味を示し、その頃から「隠遁」の気が芽生えた。 馬超・韓遂らが叛乱を起こした際に難を避けて一時漢中に移り、また曹操の漢中制圧後に長安へ帰還した。 長安帰還後、彼は意図的に人との面会を避け、官の招きにも応ぜず「阿呆」を装うようになり、乞食のような生活を生涯貫いた。 |
| 臧洪 | 男性 | 後漢末の将。広陵太守の張超に才能を高く評価され、郡の功曹として太守の実務を執った。 董卓の専横時には張超に決起を促し、張超と劉岱・孔伷・張邈・橋瑁の盟約に際し誓約の大任を果たす。 その後、袁紹に登用され青州刺史となる。当時の青州は盗賊の暴挙で荒れ果てていたが、在任中に盗賊を鎮圧した。 旧主張超が曹操軍に包囲されると、臧洪は援兵を袁紹に願い出たが許されず、張超は戦死。 恨みに思い袁紹に戦いを挑むが、自身も敗死した。 |
| 沮鹄 | 男性 | 袁紹の幕僚・沮授の子。袁紹の死後、袁尚に仕える。 袁譚が曹操に降伏した直後、冀州に攻め込んできた曹操軍を邯鄲(かんたん)で迎撃。 張遼と打ち合うが3合せずに追い立てられ、逃走するところを射殺された。 |
| 蘇由 | 男性 | 袁尚の武将。曹操に攻められた袁譚の救援に袁尚が向かった際、審配と共に鄴の守りについた。 しかし、曹操軍が鄴への侵攻を開始すると、曹操との内通を謀る。 しかし、これに気づいた審配と市街戦になり、城外に脱出して曹操軍に降った。 |
| 祖郎 | 男性 | 丹陽・宣城などにも勢力を広げていた宗教指導者。 孫策に討伐されそうになるが、先手を打って急襲し孫策軍に全滅に近い被害を与えた。後に孫策軍の呉景・呂範・孫河らの討伐を受け敗走した。 袁術が皇帝を名乗ると、袁術は祖郎に印綬を送って孫策の背後を突かせようとしたが、孫策は孫輔・呂範と共に陵陽に進軍して祖郎を破り、生け捕りする。 孫策が祖郎の才能を惜しんで宿怨を忘れ配下に迎えたため、頭を打ち付けて孫策に謝罪した。 後に祖郎は門下賊曹に任命され、孫策の帰還の際には太史慈と共に軍の先導役を務めた。 |
| 段煨 | 男性 | 董卓の武将。長安遷都後華陰に駐屯し連合軍に備えた。 献帝が洛陽へ帰還する際は、帝や公卿以下に物資を援助し、陣営に迎えようとした。 しかし、もともと仲の悪かった楊定らの進言や李傕らが接近したこともあって避けられた。賈詡はこのとき段煨の元に身を寄せ、家族も託している。 198年の裴茂の李傕討伐に従い功を立てた。後に中央に召されて大鴻臚・光禄大夫となり、四十歳で卒去した。 |
| 种輯 | 男性 | 後漢の政治家。 董卓による長安遷都後に、种輯は黄門侍郎の荀攸らと共に董卓暗殺計画を謀ったが、事前に発覚して失敗に終わった。 献帝の東帰の際は側につき従った。200年、种輯は董承らと共に、曹操誅殺のクーデターに参加したが、事前に発覚し、処刑された。 |
| 張奐 | 男性 | 若い頃から才能を発揮して、後漢に仕えた文武両道の将。 北境では異民族の侵攻を度々防ぎ、功績を挙げ、皇甫規(威明)、段熲(紀明)とともに「涼州の三明」と讃えられた。 しかし、党錮の禁ではその忠誠心の高さを十常侍に利用され、宦官を除こうと挙兵してきた竇武・陳蕃らを何も知らぬまま撃退してしまった。 |
| 趙娥 | 女性 | 龐子夏の妻、龐淯の母。龐娥と呼ばれることもある。父・趙安が祿福県の李寿に殺害されため、病死した三人の弟に代わって復讐を誓う。 名刀を袖に隠し持ち、ある日の白昼に李寿を狙って車で出かけると、はたして李寿に遭遇したので、罵って斬りかかった。 李寿は馬から振り落とされたが、刀が樹にぶつかって折れたため、抵抗する李寿の喉を手で突いて怯ませ、剣を奪って首を斬った。 復讐を果たすとそのまま役所に出向き、法の裁きを受けようとしたが、しのびなく思った県長や守尉らの計らいで家に戻された。 ちょうど恩赦があったため赦免となり、彼女の行いは各地で顕彰された。 |
| 張闓 | 男性 | 徐州太守・陶謙の配下。もと黄巾の残党。 陶謙の命で、曹操に招かれ兗州に向かう曹操の父・曹嵩を護衛する。 しかし、曹嵩一行が持つ財宝に目がくらみ、部下と謀って曹嵩らを皆殺しにすると、財宝を奪って淮南に逃げた。 激怒した曹操は徐州に侵攻するが、その間に呂布に兗州を奪われる。 |
| 張機 | 男性 | 後漢末期の医学家、官吏。 後漢末期の戦乱の中で傷寒病などの伝染病が流行し、家族も病死する悲惨な光景を目にして、医学を修めることを決意。 建安年間に各地を遊学し『傷寒雑病論』を執筆する。 また、長沙太守を務めたこともある。後代、「医聖」と讃えられ、華佗・董奉と並んで建安三医に数えられる。 |
| 趙氏貞 | 女性 | 通称は趙嫗。麗海婆王とも呼ばれた。越南(ベトナム)の反乱指導者。兄の趙国達と共に九真の地で呉に対して反乱を起こした。 身長九尺の長身で胸は三尺もあり、鎧に収まらないために肩にかけていたという。 呉から派遣された陸胤に討伐され戦死した。 |
| 張松 | 男性 | 劉璋の幕僚。張粛の弟。劉璋が張魯に脅かされると、曹操に援軍を要請に向かう。 しかし、曹操からぞんざいに扱われたため、楊修を言い負かし、曹操の「孟徳新書」を暗記して驚かせる。 その態度が曹操の怒りを買い、交渉は決裂。帰途、劉備から歓迎を受け、劉璋に代えて劉備を蜀の統治者にしようと目論む。 劉備に蜀の地図を渡し、張魯を防ぐ名目で劉備を蜀に入れることに成功。 決起を促すが、兄・張粛に計画を通報され、劉璋に処刑された。 |
| 張譲 | 男性 | 後漢の宦官。十常侍の筆頭。養子の妻は何太后の妹にあたる。霊帝の腹心。 後に何進が十常侍排斥を企てると、先手を打って何進を宮中で暗殺した。 しかしこれが袁紹、袁術らによるクーデタを招き、宮中の宦官は殺戮された。 趙忠ら十常侍の大半が討ち取られる中、張譲は少帝と陳留王(のちの献帝)を連れて洛陽を脱出したが、 黄河の辺で叛乱軍に追いつかれ、河に身を投げて自殺した。 |
| 張世平 | 男性 | 仲間の蘇双と共に馬を商う豪商。義兄弟の契りを結んだばかりの劉備三兄弟に軍資金や馬を援助する。 その軍資金を元に、劉備らは義勇兵を率いて黄巾討伐に加わることになる。 |
| 張羨 | 男性 | 後漢末の政治家・軍人。 零陵・桂陽地域の県長・太守を務め荊南の民心を掴んでいた。強情な性格で劉表に疎まれて礼遇されず、そのことで恨みを抱いた。 198年、長沙・零陵・桂陽の三郡の兵を率いて劉表に叛き、劉表は長沙を包囲したが落とすことは出来なかった。 配下の桓階を曹操へ送るが援軍を得られず、後に病死。息子の張懌が後を継いだが長沙は陥落した。 |
| 張超 | 男性 | 後漢末の将・政治家。陳留太守の張邈の弟。 兄の張邈や他の諸侯と共に反董卓連合に参加し、同盟の宣誓者として、臧洪を推薦。 後、徐州の陶謙を討つため徐州遠征に赴いた曹操の留守を狙い、陳宮・張邈らと謀議し、呂布を兗州牧に推戴して謀反。 一時は、呂布らにより兗州の大半を制圧したが、曹操の反撃で窮地に追い込まれる。 雍丘に籠城し、曹操の猛攻撃に抵抗するが、雍丘は陥落して張超は自殺した。 |
| 趙浮 | 男性 | 韓馥配下の都督従事。 反董卓の挙兵時は韓馥の命令により、同僚の程奐と共に、数百艘の船と石弓隊一万を擁して、河陽の孟津に駐屯していた。 韓馥が袁紹に冀州を譲ると聞くと、趙浮と程奐は、急遽韓馥の下へ引き返す。 その途中、朝歌の清水口に袁紹とその軍が駐屯していたため、趙浮と程奐は、夜間に軍鼓を打ち鳴らしながらその側を通過し、袁紹を威嚇した。 趙浮らは、韓馥の下に戻ると、袁紹と戦うことを願い出たが、結局韓馥はこれを聞き入れず、袁紹に冀州を譲渡した。 |
| 張楊 | 男性 | 後漢の河内太守。袁紹が董卓討伐軍を起こした時、上党に駐屯しており、匈奴の於夫羅と共に袁紹に協力した。 しかし、於夫羅が反逆を企てたため瓦解し、一時期、於夫羅に捕らえられた。その後、董卓から河内太守に任ぜられる。 献帝が李傕、郭?の支配下を脱して洛陽に移った際、食糧を援助して大司馬に任ぜられた。 呂布が曹操に包囲されると、呂布を救援して曹操の背後を攻めようとするが、部下の楊醜に殺された。 |
| 禰衡 | 男性 | 天下の奇才。孔融の推挙で曹操に召し出される。 対面の席上、曹操が礼を欠いたことから彼の配下を痛烈に罵倒し、曹操の怒りを買う。 後に劉表や黄祖の元に行くが、そこでも不興を買い結局処断された。 黄祖の子・黄射とは親しい関係であった。詩に『鸚鵡賦』がある。 |
| 鄭泰 | 男性 | 後漢の将。鄭渾の兄。何進の招聘を受け、その側近となり活動した。 いち早く董卓の危険性を見抜き、何進が董卓と結ぶことに反対したが、進言が容れられることはなかった。 何進暗殺後、董卓が政権を握ると、表面上は忠実な振りをしつつ袁紹に官位を授けさせたり、荀攸と暗殺計画を練るなど董卓の打倒を謀った。 しかし、計画は失敗し、袁術の元に逃れるとそこで病死した。 |
| 田疇 | 男性 | 後漢の議郎。劉虞に仕え、早くから公孫瓚を警戒していた。 献帝への使者として長安に赴くが、劉虞が公孫瓚に殺されたため隠棲。 袁紹や袁尚の招きには応じず、北方に籠もって善政を敷いた。 郷里を荒らした烏丸を恨んでいたため、曹操の烏丸討伐に協力した。しかし、その後は曹操の任用も固辞し、親しかった夏侯惇の説得も拒んだ。 |
| 杜氏 | 女性 | 秦宜禄の妻。秦朗、金郷公主の母。 下邳陥落の際、夫の秦宜禄が他の女性と結婚していた為、関羽は曹操に杜氏を娶りたいと願い出た。 曹操は了承したが、実際に見たところ気に入った為、そのまま側室にしてしまった。 連れ子の秦朗は曹操に養育され、後に魏の権臣となった。 |
| 董氏 | 女性 | 馬超の妾。弟に董种。子に馬秋。張魯のところに預けられていたが、張魯の降伏後は閻圃に与えられた。 また、同じく預けられていた子の馬秋は張魯に殺された。 |
| 董白 | 女性 | 董卓の孫娘。長安遷都の際に、未成年だったにもかかわらず渭陽君に封ぜられ領地も与えられた。 董卓暗殺時は他の親族と同じく郿塢にいたと考えられ、王允の命で皇甫嵩が郿塢を攻めた際に死亡したと推察される。 |
| 董奉 | 男性 | 三国時代の医者。若い時に医学を学び、南方で活動した。 患者から治療費を受け取らず、快方した患者に杏の苗を植樹することだけを求め、数年後には数万株の杏が満開になったという。 晩年は豫章に隠棲し、民に医療を施し続けた。病院や医者のことを「杏林」と呼ぶのは彼の事績に由来する。 仙人としての逸話も多く残り、虎を使役したり、病死した士燮を甦らせたり、何百年も生きたり、といった伝説がある。 |
| 南華老仙 | 男性 | 荘子と同一視される仙人。 漢王朝の腐敗に悩んでいる張角に、『太平要術の書』を授け「これを使って世直しをせよ。ただし、悪しきことに使えば天罰が下る」と言って去った。 |
| 裴茂 | 男性 | 後漢の官僚、武将。裴潜の父。裴秀の祖父。 献帝に侍御史として仕え、建安二年(一九七)十月には、段煨や関中の諸将を統率し、李傕を討伐して、その三族を滅ぼした。 子の裴潜のことはあまり評価していなかった。 |
| 馬休 | 男性 | 馬騰の次男。馬超の弟。馬鉄の兄。 孫権討伐の勅命を受けた馬騰に従い許昌に入った。 しかし、馬騰と黄奎による曹操討伐の密議が発覚し、曹操軍に包囲される。馬騰と共に勇戦するが、捕らえられ処刑された。 |
| 馬鉄 | 男性 | 馬騰の三男。馬超、馬休の弟。 馬休とほぼ同じく、孫権討伐の命を受けて許昌に呼び寄せられた馬騰に同行。 馬騰と黄奎による曹操討伐の密議が発覚して曹操軍に攻められ、乱戦の中、戦死した。 |
| 潘鳳 | 男性 | 韓馥の武将。大斧の使い手。反董卓連合に参加した韓馥に従軍する。 ?水関の戦いで、袁術配下の兪渉が華雄に討ち取られると、韓馥の命を受けて華雄に挑む。しかし、あっという間に返り討ちにされた。 |
| 卑弥呼 | 女性 | 倭(当時の日本)に存在した邪馬台国の女王。当時の倭は乱が続いていたが、卑弥呼が女王になると乱は治まった。 鬼道を用いて国を治め、魏に使者を送って親魏倭王の称号と金印を授かっている。 死後、国は再び乱れるが、卑弥呼の一族の娘で13歳の壱与(台与とも)が女王になると、国は再び平和になったという。 |
| 馮氏 | 女性 | 馮方の娘。国中第一と評判の美女で、袁術に寵愛された妾。 他の妾が「将軍はみさおの固い女性が好みですから、いつも物思いにふけって涙を流されると良いですよ。」とわざと間違った忠告をしたが、 馮氏はもっともだと思い実行したところ、一層袁術からの寵愛を受けた。そのため他の妾たちは共謀して馮氏を自殺に見せかけて絞殺した。 袁術は、梁に掛けられた遺体を見て、想い人と一緒になれないことを悔やんで自害したと思い、憐れんで手厚く葬った。 |
| 方悦 | 男性 | 河内太守・王匡の将。反董卓連合に参加した王匡の配下として従軍した。 虎牢関で呂布軍と激突。呂布が単騎で乗り込んでくると槍をしごいて迎え撃つ。 しかし、5合もせずに討ち取られ、余勢を駆った呂布の前に王匡軍は大敗した。 |
| 穆順 | 男性 | 張楊の武将。反董卓連合軍に張楊の配下として参加。 虎牢関の戦いで、呂布の勇猛ぶりに連合軍の諸将が尻込みする中、槍を片手に単騎で迎え撃つ。 しかし、呂布の方天画戟でひと突きにされた。 |
| 孟節 | 男性 | 南蛮王・孟獲の兄。竹の冠に草の履、白い袍に黒い帯を締めた碧眼黄髪の人物。 孟獲らが悪行をおこない朝廷に服さないことを諌めたが、聞き入れられなかったため隠棲する。 万安渓という谷で「万安隠者」と名乗り、長年にわたり暮らしていた。 蜀の南蛮征圧の際には、諸葛亮と出会い毒泉にやられた傷病兵の治癒に協力した。 |
| 楊醜 | 男性 | 張楊の武将。張楊が呂布に加勢しようとした時、張楊を殺し、首を曹操に献じる。 その後、部下の眭固に裏切られ、殺された。 |
| 李孚 | 男性 | 馮紞の祖父?袁尚の幕僚。元の姓は馮。 審配の守る鄴が曹操軍に包囲された際、援軍を知らせる使者として曹操軍に成りすまして包囲を突破、無事に入城した。 また、食糧節約の為、子供や老人を降伏させ、城から出す策を審配に献じた。 後の袁尚追討ではぐれたため、止む無く袁譚に仕え、その後、降伏し曹操に仕えた。魏では司隷校尉や平陽太守を勤めた。 |
| 李豊 | 男性 | 袁術の武将。袁術が起こした呂布討伐戦に督戦官として参加。 呂布と一騎討ちになり、槍で利き腕を突かれて逃走した。 その直後、曹操に攻め込まれ、楽就、梁綱、陳紀と共に寿春を守る。しかし、力及ばず、曹操軍に捕らえられ、斬られた。 |
| 劉淵 | 男性 | 漢(後の前趙)の創建者。劉豹の子。母は呼延氏。約190�の巨漢で、腕力に優れ弓術を得意とした。 幼少の時に漢人の文化を学び、魏末に人質として魏の洛陽に入った。西晋の初年に父・劉豹が高齢で没すると、跡を継ぐ。 八王の乱が起こり晋朝が乱れると、従祖父や腹心から秘かに大単于に推され、司馬穎に匈奴の援軍を率いると言って帰郷、大単于に就任する。 10月、晋から自立。単于が漢王朝とかつて婚姻関係にあったことから国号を「漢」と定め、漢王を称した。 配下の石勒、王弥や従子の劉曜など従えて、勢力を拡大。308年10月に皇帝を称するに至ったが、洛陽攻略の途上で、病没した。 |
| 劉和 | 男性 | 後漢の幽州牧・劉虞の子。侍中として献帝に仕える。 長安遷都後、洛陽に戻ろうとした献帝から、劉虞に出兵を促すよう命じられた。 幽州に向かう途中、袁術に劉虞から送られた軍勢を奪われ自身も拘留された。 後に袁術の下から脱するが、父・劉虞は犬猿の仲だった公孫瓚によって殺害されていた。 そこで袁紹の精兵や劉虞の遺臣と共に、亡父の仇である公孫瓚を攻め滅ぼした。 |
| 柳毅 | 男性 | 公孫度の官僚、武将。公孫度から信任を受けた。 公孫度は諸将に勃海を渡らせ青州の東莱郡の諸県を攻略させたが、このときの将の中に柳毅がいたと考えられる。 たびたび青州で暴れまわったが、袁譚が敗れた頃、海岸方面に派遣された張遼によって撃破された。 |
| 劉協 | 男性 | 後漢の第14代皇帝。献帝。霊帝の次子。母は王氏。 霊帝が死に、少帝が即位すると、陳留王となる。間もなく董卓に擁立されて即位し、長安への遷都を強行された。 董卓の死後は李傕に支配されるが、長安を脱して曹操の保護を受け、許昌に移る。 以後、政権を曹操に掌握され、たびたび曹操の討伐を図るが、いずれも失敗。 220年、魏王・曹丕に禅譲を迫られ退位。山陽公に封ぜられ、後漢は滅亡した。 |
| 劉虞 | 男性 | 後漢の幽州牧。皇族の中で特に徳望が篤かった。 幽州牧として赴任後、融和政策により東方異民族を統治し、民心を安定させる。 董卓が献帝を擁立した後、袁紹と韓馥から皇帝に担ぎ上げられそうになるが、漢室への恭順を貫き、拒否した。 異民族統治策での意見の違いから、次第に公孫瓚との仲が悪化。193年、公孫瓚と戦って敗れ、刑死した。 |
| 劉宏 | 男性 | 霊帝。後漢の第十二代皇帝。 暗愚な人物とされ、政治の実権は十常侍など宦官らに掌握された。 一方で学問を重視して、熹平石経を作らせたり、皇帝直属の常備軍の「西園八校尉」を設立したりといった事績もある。 黄巾の乱平定後、騒乱の最中に崩御した。 |
| 劉? | 男性 | 荊州刺史・劉表の次男。劉?の弟。 蔡氏を妻としたことから蔡瑁らの一族の後押しもあり、長男を差し置いて後継者となる。 しかし、後継の座を奪われた劉?や劉備の攻撃を恐れ、傅巽らの策を入れて曹操に降伏。 曹操が荊州に入った後、青州刺史に任じられる。 |
| 劉磐 | 男性 | 劉表の甥。劉表の命で、黄忠と共に長沙の攸県を守る。 勇猛でたびたび艾県、西安県などの諸県に攻め込んだが、孫策が太史慈を赴任させると鳴りを潜めた。 |
| 劉弁 | 男性 | 後漢の第十三代皇帝。霊帝の息子。生母は何太后。 霊帝が崩御すると大将軍の何進により擁立された。 しかし、何進が宦官により暗殺され、さらに宦官も袁紹によって皆殺しにされたため、 その時期に洛陽に入ってきた董卓によって、異母弟の劉協(献帝)が擁立され廃位となり、弘農王に封じられた。 反董卓連合が起こると、連合軍に擁立されることを恐れた董卓に命じられた李儒によって、長安遷都前に毒殺された。 |
| 呂伯奢 | 男性 | 演義に登場する富豪。 董卓から指名手配され洛陽から逃亡中の曹操と、その同行者の陳宮を家に匿う。 しかし、留守中に疑心暗鬼に陥った曹操によって家人が皆殺しにしてしまう。 また逃亡の障害となるため、何も知らず帰ってきた呂伯奢も殺害された。 |
| 盧氏 | 女性 | 張衡の妻。張魯の母。巫術に通じた女性で、年を経ても若々しい姿のままだった。 いつも家を行き来するなど劉焉に気に入られたため、息子の張魯が官位を授かり漢中に派遣された。 劉焉は長安からの道を塞がせたため、張魯は漢中に五斗米道の拠点を得ることができた。 劉焉が没すると子の劉璋が後を継いだが、張魯は劉璋に従うことを承知しなくなった。そのため、益州にいた盧氏とその親族は劉璋に殺害された。 |
| 名前 | 性別 | 登場作品 | 血縁、活躍、人物像など |
|---|---|---|---|
| 王悦 | 女性 | 花関索伝 | 盧塘塞(ロトウサイ)の盗賊・王令公の次女。王桃の妹。姉の王桃と一緒に関索の側室となった。 |
| 王桃 | 女性 | 花関索伝 | 盧塘塞(ロトウサイ)の盗賊・王令公の長女。王悦の姉。蜀へ向かう関索と戦うも敗れた。捕えられると妹とともに側室となった。 |
| 花鬘 | 女性 | 龍鳳巾(京劇) | 孟獲と祝融の娘で、母譲りの武勇の持ち主。孔明の南征に従軍した関索との幾度かの出会いや戦いを経て婚約、結婚する。 |
| 樊玉鳳 | 女性 | 京劇 | 正史や演義での樊氏に当たる女性。演義等と同じく初めは趙雲が縁談を断る。その後趙雲との戦いを経て結ばれ、共に戦場に立つ仲になる。 |
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