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|>|~分類|>|>|>|~性能|
|メーカー|マツダ|PP|678|全長|4,782mm|
|国籍|日本|総排気量|654×4cc|全幅|1,994mm|
|カテゴリ|レーシングカー/IMSA-GTP|最高出力|700PS/9000rpm|全高|1,003mm|
|モデル|''高品質''|最大トルク|62,0kgfm/6,500rpm|車両重量/配分|830kg/49:51|
|ギャラリー|''対応''|駆動形式&br;吸気形式|MR/NA|トランスミッション|5速|
|メーカー|マツダ|総排気量|654x4cc|PP|678|
|国籍|日本|最高出力|700PS/9,000rpm&br;(802PS/9,000rpm)|全長|4,782mm|
|カテゴリ|プロトタイプレーシングカー/FIA-グループC|最大トルク|62.0kgfm/6,500rpm&br;(71.2kgfm/6,500rpm)|全幅|1,994mm|
|モデル|''高品質''|駆動形式|MR|全高|1,003mm|
|ギャラリー|''対応''|吸気形式|NA|車両重量|830kg/49:51|
|内装|再現|PWR|1.03kg/PS|TM|5速|
|>|~入手方法|>|>|>|~カスタム/チューン制限|
|ディーラー|Cr.210,000,000|カスタム|>|>|ペイント:不可、ホイール交換:不可、エアロ装着:不可|
|プレゼント|---|チューン|>|>|---|
//-[[GT5での「---」についてはこちら>]]
//-備考はここ
#region(←カラーバリエーションを表示)
|>|>|>|~カラーバリエーション|
|---|---|---|---|
|---|---|---|---|
#endregion
|ディーラー|Cr.210,000,000|カスタム|>|>|ペイント:不可、ホイール交換:不可、エアロ装着:不可|
|プレゼント|---|チューン|>|>|ターボキットのみ可|
//-備考:

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//#ref(.jpg,nolink)
//#ref(.jpg,nolink)
#ref(787B.jpg,nolink)
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-1992年からのグループCレギュレーション改正による、ロータリーエンジン使用禁止により、1991年がル・マン挑戦への最後のチャンスであると考えたマツダが、前年度に参戦し、ユノディエールのシケインによって増えた負荷により惨敗となった787を改良したマシン。
とはいえ、トレッド幅から始まり200カ所もの改造点があったため、モノコックを流用した程度のほぼ別物。最近の例で言えば[[R18 TDI>R18 TDI (Audi Sport Team Joest) '11]]とR18 Ultraぐらいの違いがある。
-マツダのモータースポーツの歴史の中で、恐らく最も有名な車両がこの「787B」だろう。
92年からの新グループC規格によるロータリーエンジン使用禁止(後に解禁)により、マツダにとって91年がル・マン挑戦最後のチャンスとなった。
90年のル・マンで惨敗した787に200ヶ所以上もの改良を施し、且つIMSA-GTP規定からグループC2規格に変更したものが本車である((本来のC2は車重1000kgだが、政治的駆け引きと昨年の惨敗から「ロータリー搭載車は830kg」という有利な裁定を引き込んだ…というのも有名な話。))。
マツダの命運を背負った3台のマシンは、レナウンカラーの55号車と、マツダワークスカラーの18号車・56号車であった。
しかし、レースはメルセデス・ベンツC11の1号車・31号車・32号車が序盤からトップ3を独占。91年もメルセデスの圧勝かと思われた。

-まさにマツダの命運を背負って18号車、55号車、56号車(うち56号車は前年度型の787を787Bのパーツで部分的に改良したもの)が1991年のルマンに出走したが、レースはメルセデス・ベンツ C11(GT6未収録)の1号車、31号車、32号車が序盤からトップ3を独占。1989年大会に続き今年もメルセデスが圧倒するかと思われた。
-ところがライバルチームにトラブルが続出した。原因は新グループC規格と、90年に新設されたユノディエールのシケインである。
故障上等・データ収集のために新規格車で参戦したプジョー905は、開始僅か2時間で計画的撤退という形で全滅。
旧規格マシンを持ち込んだメルセデスも32号車がトラブル、シューマッハ操る31号車も半日後にミッショントラブルで緊急ピットインし、後退。
メルセデス陣営は前年のレースを欠場していたため、ユノディエールのシケインに対応しきれていなかった。

-しかしライバルチームにトラブルが発生。新規格車で参戦のプジョーは開始わずか2時間で全滅と言う名の計画的撤退。旧規格マシンを持ち込んだメルセデスもスタートから10時間目に32号車がトラブルで後退。ミハエル・シューマッハ駆る31号車も13時間目にミッショントラブルを訴えて緊急ピットイン、20分を費やしてコースに戻るも5番手に後退した。これらの幸運も重なって、18番グリッドからのスタートだった55号車が大きく順位を上げ、夜には3位とは1周遅れながらも4位に付けた。
-マツダチームの車両はその後もトラブルを起こすことなく走行を続け、翌朝までにレース展開は単独トップで走行する1号車C11に続いて、旧規格車を持ち込んだ2号車のジャガーXJR12(GT6未収録)と55号車が2位争いを繰り広げる形となった。「このまま行けば少なくとも入賞は確実だ」との意見も有る中で、マツダチームはその時のスティントを担当していたジョニー・ハーバートにもう1スティント走行させるという賭けに出た(当時は2スティント走行というのはまず考えられなかった)。
-その賭けが見事成功、55号車は単独2位に浮上。さらにトップの1号車C11を追い詰めるため、マツダのアドバイザーであった元F1ドライバー、ジャッキー・イクスの『ドイツ人(トップのメルセデス陣営を指す)は必要以上にアドバンテージを求めたがる。こちらがペースを上げれば相手のエンジンに負担をかける事が可能だ』というアドバイスを受けて更にペースを上げて走り続けた。
-結果、3周先にいた1号車はこのペースアップに焦り、無茶なペースアップをしてしまう。結果エンジンの冷却系に支障をきたしリタイヤ。見事55号車は単独トップに立ち、燃費のせいでタイムを伸ばすことが出来ないジャガー陣営は後退し、サルトサーキット362周を走りきって日本車初のル・マン総合優勝を獲得。しかしラストも2スティントを担当したジョニー・ハーバートが脱水症状を起こし、下車と共にダウン。表彰台には残りの2人しか立てなかった。
マツダワークスカラーの18号車、56号車もそれぞれ6位と8位で完走を果たし、マツダ製ロータリーエンジンの高い信頼性を見せつける結果にもなった。
--「実はメルセデス陣営はこのペースアップに惑わされず、3周の貯金を切り崩しながら走れば1位は堅持出来たんじゃないか」と後にマツダの大橋監督は語っている。
-一方でマツダ陣営・787Bは、全開走行且つノントラブルで快走し、着実に順位を上げていった((とはいえ本当に全開だと最低燃費2.4km/lを割り込むので流石にリフトアンドコーストはしている。))。
787Bには前年の経験が存分に反映されていた他、エンジンを労わるために予め全使用ガソリンを濾過する等の徹底的な対策を講じていた。
また、他ライバル陣営が787Bの戦闘力を過小評価していた事も少なからず影響している((上記の車重830kgを受け入れてしまった件等。というか、JSPCやSWCで常に周回遅れにされていたマツダが、ル・マンでここまでの戦闘力を発揮するとはどの陣営も予想できなかった。))。
プジョー陣営・905が正にそうであったように、当時の技術では過酷なル・マンでの全開走行はリタイアと同義である。
常に全開走行を行っていた787Bが、本気で総合優勝を狙っている等とはどの陣営も全く思っていなかったのである。
こうして18番グリッドからのスタートだったマツダ55号車は、夜には4位にまで浮上していた。

-現在でもこのクルマは『ル・マンで総合優勝を果たした唯一無二の日本車でありロータリーエンジン搭載車』として語り継がれている。
-この派手なオレンジと緑のカラーはレナウンが「マツダは勝てるはずがないだろう」という考えから、せめて目立つようにしようとした為にこのようになっていると言われている。このカラーリングはマツダ車ではレナウンがスポンサードを始めた'89年の「767B」(GT6未収録)から始まり'92年の「MXR-01」(GT6未収録)まで使用された。
-なお、MXR-01以降もマツダスピードとアメリカのコンストラクターのD.T.R.が手を組んで開発されたオープンプロトのクッズ(Kudzu)・DG-3('95)やDLM('96)にもこのカラーが使われている。
-この55号車(シャーシナンバー002)を保存する為、ルマン終了後202号車が追加で生産された。202号車も同じレナウンカラーだが、緑とオレンジの部分が逆になっている。
-また、このゲームに収録されている787Bはドライバーの名前が肖像権等の理由のためか実際と異なっており、さらに車体のマーキングから「本当の」ル・マン優勝車ではなく、後期に制作されたレストア車を基にしてモデル作成された物である。
-マツダ55号車は、ペースを上げつつその後もノントラブルで走り続けた。
レースは単独トップのメルセデス1号車に続き、ジャガーXJR-12・2号車とマツダ55号車の2位争いとなった。
「このまま行けば総合優勝はできなくとも入賞は確実だ」との意見もある中で、マツダは賭けに出た。
その時のスティントを担当していたジョニー・ハーバートに、続けてもう1スティント走行させたのである。
賭けは見事成功し、ジャガーを引き離してマツダ55号車は単独2位に浮上。悪燃費のV12エンジンを積むジャガーは追従できなかった。

#hr
#region(以後余談)
-因みにマツダ787Bは正確にはグループCカーではなく、IMSAクラスのレギュレーション、IMSA-GTP規定下で製作された車両である(車重830kgが証拠。グループCカテゴリー2規定下なら、最低車重が1000kgになる(1991年規定)ため、787Bは当てはまらない)。
尚、ACO及びFIAは''エンジン形式で最低重量を規定してはいない''ので、ロータリーだから830kg"は完全な間違い。ただ、交渉でIMSA-GTPクラスの最低車重を「SWCの他のイベントでは830kgだが、ルマンだけ880kgにされる」という予定を、他のSWCイベント同様の830kgに引き下げたのは確かなこと。
--この軽量ボディとロータリー特有のエンジンブレーキが利きにくいという欠点を逆手に取り、アクセルをコーナーのかなり手前からリリースして走っていたため、燃費はフルスピードで2.4km/lをマークしていた。これはグループCの1.8km/lという規定を超えていたため、今でこそ燃費規定が無いため当たり前だが、当時としては異例の24時間を常にフルスピードで走っていたとか。
-1991年の勝利から時が経ち20年後の2011年、787Bは再びジョニー・ハーバートのドライブによりサルトサーキットをデモランで走行。
ル・マン主催者からの招待によるものであったが単独車種のデモランという破格の待遇で、20万人以上の観客が集まったといわれている。このときはマツダも''レブリミット無制限''という超大盤振る舞いを行った。
詳細は[[マツダ公式サイト>http://www.mazda.co.jp/philosophy/rotary/lemans/]]を参照して欲しい。
この時ドライブしたジョニー・ハーバートは当時のレーシングスーツに袖を通す為、過酷なダイエットに挑んだ。また当時と同じように下車後にマシンに倒れ込み、スタッフに担がれて表彰台へと運ばれるというパフォーマンスを行い、笑いを誘っていた。ちなみに20年前に担がれて運ばれたのは表彰台ではなく医務室だったため、このとき始めて表彰台に上ることとなった。
--マツダはこのデモランのために大規模なレストアを施したが、現在ではデモランをするにも慎重さを求められる難しい車。
この手の車両では常識だがワンオフ製作の部品が満載のためマツダにも在庫パーツは殆どなく、コスト面から見ても新たなオーバーホールは非常に困難と見られている。一応ボディ側や補機類は既に2回新造に近いレベルのフルレストアを行ったが、エンジン系のパーツはマツダに技術が残っていないためコストを度外視したところでワンオフすら出来ず、マシなエンジン1機と、それなりに動くエンジン1機しか残されていない。前者は55号車、後者は202号車に積まれている。この組みなおしもわざわざ当時のメカニックを呼んで行ったほど。
-一応エンジン本体のレブリミットは10000回転とされているが、ミッションが耐えられないという判断で常用のリミットは8500回転。今では壊れたらもう終わりという事もあり、7000回転に制限されている。
-初収録はGT3だったのだが、何故か4ローター''ターボ''とスペックが違っていた。
-エンジン形式のR26Bとは「13B+13B=26B」ということ、実際に13Bのハウジングを使っているが、3プラグ&吸排気ペリフェラルポートと、市販品の2プラグ吸気サイドポート、排気ペリフェラルポートとは別物。ルマン専用と思われがちだが、実はレース機材用にマツダスピードからこのハウジングが少数販売されていた。10年ほど前に発掘されたデッドストック(+セラミックエイペックスシール)がOptionに紹介されていたが、ブローしたら鉄くずとして売るしかないロータリーエンジンの都合上、現存してる個体は数個だと思われる。
--このR26Bが最初の4ローターだと思われがちだが、実は87年末に投入された13Jですでに4ローター化はされていた。
-首位のメルセデス1号車を更に追い詰めるため、マツダの大橋監督は更なるペースアップを指示したが、これにはチーム内から難色の声が上がった。
総合2位はマツダ陣営の過去最高成績。ここで無理をしてエンジンを壊し、結果リタイアとなっては元も子もないからである。
しかしここで、R26Bエンジン設計グループ主任の栗尾氏が'''「うちのエンジンは、壊れない!」'''と一喝。
マツダのアドバイザーであった元F1ドライバー、ジャッキー・イクスのアドバイス、
『ドイツ人(メルセデス陣営)は必要以上にアドバンテージを求めたがる。こちらがペースを上げれば相手のエンジンに負荷を掛けられる』
という声でチーム内を落ち着かせ、マツダ55号車は更にペースを上げて走り続けた。

-結果、メルセデス1号車は目論見通り無茶なペースアップをしてしまい、オーバーヒートとトランスミッションのトラブルでリタイア。
レース開始から21時間、遂にマツダ55号車は単独トップに浮上した。
大橋監督は「メルセデス陣営は自分らのペースアップに惑わされず、3周の貯金を切り崩しながら走れば優勝できただろう」と後に語っている。
この時メルセデス31号車との差は5周、もはや首位復帰は不可能であった。2〜4位はジャガーが固める事となる。

-大橋監督はチームに緊張感を保たせるため、最後の最後までペースを下げさせなかった。
レース終了20分前の最終ピットインでも、既に1時間半近い連続走行を行っていたジョニー・ハーバートを交替させなかった。
タイヤ交換の際はメカニックの手が震え、その他マツダ関係者も時間の経過が恐ろしく遅く感じられたという。
永遠とも思えるような最後の1時間を駆け抜け、遂にチェッカーが振られる。マツダは362周を走り切ってル・マン総合優勝を獲得した。
マツダワークスカラーの18号車、56号車もそれぞれ6位と8位で完走を果たし、マツダ製ロータリーエンジンの高い信頼性の証明にもなった。

-今なお数々の日本車がル・マンに挑戦し続けているが、ル・マンでの総合優勝という快挙を果たした日本車は、この787Bが初である。
マツダは大資本をバックに参戦してきた他日本勢と違い、ロータリーエンジンという独自技術と共に、長い年月を掛けて地道に参戦を続けてきた。
そのマツダの総合優勝は、地元観客のみならず、他ワークスチームや世界中のモータースポーツファンからも大絶賛を受けた。
1973年の初挑戦から18年もの時を経て遂に勝ち取った、悲願のル・マン総合優勝であった。
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#region(余談)
-ルマン後、オーバーホールのためにエンジンを分解したが、「あと500kmのレース1本走れる」という状況だったという。
但し、これには後述の裏話がある。
マツダは自社製ロータリーエンジンの性能を証明・アピールする場として、スポーツカーレーシングへの参戦意義を見出していた。
マツダにとっては、このルマン24時間耐久レースこそが最終目標でありゴールであった。
その目標を最高の形で達成したマツダは、1992年限りでスポーツカーレーシングから全面的な撤退を決断した。
ちなみに車体側はかなりギリギリだった模様で、メンテナンス中に「補強板のボルトが緩んでいる」のが発見されたとの事。

-また2022年、当時のスタッフから「実はエンジンがブロー寸前だった」という裏話が語られている。
上の公開オーバーホールの時、とある部品に後数mmで破断するクラックが入っている事が発覚。
耐久性をアピールするためにと行った公開分解なのにこれはまずいということで、とっさにトレイで隠したという。
この年のルマン、15時55分頃からフェンスを乗り越えてコースに観客が乱入してしまったため、急遽チェッカーが振られることに。
ペースを落としても後1周あったため「ファイナルラップにエンジンブローによるリタイヤ」という、
後のトヨタに匹敵する悲劇の可能性が高かったという。

-この派手なカラーは、レナウンの「マツダは勝てるはずがないだろう」という考えから、せめて目立つようにしようとした為にこうなったと言われている。
これは89年の「767B」から92年の「MXR-01」まで続いた他、オープンプロトのKudzu DG-3やDLMにも使われた。

-この55号車(シャーシナンバー002)を保存する為、ル・マン終了後202号車が追加で生産された。
202号車も同じレナウンカラーだが、緑とオレンジの部分が逆になっている。またその当時の旧WECでは夜間走行がないレギュレーションだったので、ヘッドライトを外して、その部分をカバーで覆っている。

-1991年の勝利から時が経ち20年後の2011年、優勝20周年記念として787Bは[[サルトサーキット]]でのデモランがオファーされる。
ル・マン主催者のACOによる招待であり、普通数車種が一緒に1周走行するのが通例だったが、単独車種のデモランで2周という破格の待遇で、20万人以上の観客が集まったとされている。
この時ばかりはマツダも当時使わなかった10000回転まで開放(下記参照)という大盤振る舞いを行った。詳細は[[マツダ公式サイト>http://www.mazda.co.jp/philosophy/rotary/lemans/]]を参照。

-レース終了数時間前からの長時間走行により、ジョニー・ハーバートは脱水症状を起こして下車と共にダウン。医務室に直行してしまい表彰台に上がれなかった。
デモランを行った際、ジョニーは当時と同じように下車後にマシンに倒れ込み、スタッフに担がれて表彰台へと運ばれるというパフォーマンスで笑いを誘った。ジョニーは20年の時を経て、初めて表彰台の頂点に立つ事となったのである((ジョニーは2003年に2位で登壇した経験はあるが、頂点に登った経験は無かった。))。

-マツダはこのデモランのためにフルレストアを施したが、現在ではデモランをするにも慎重さを求められる難しいクルマ。
この手の車両では常識だが787Bも例外なくワンオフ製作の部品が満載である。ところが、マツダにも在庫パーツは殆どないうえ新規パーツを製造するコストも馬鹿にならない。
加えて、既にレースを離れて久しい現在のマツダに製造技術が残っていないため、新たなオーバーホールは非常に困難と見られている。
上記20周年時の組みなおしも、わざわざ当時のメカニックを呼んで行ったほど。
特にエンジン((厳密なフルレストアでなく、3機ほど残っていたR26Bを全部分解し、一番調子のよさそうな部分をかき集めた。))とカウリングは、予備もなく新規製造も不可能であり、それらを含むフルレストアは今回が最後と言われている。

-一応エンジン本体のレブリミットは10000回転とされているが、ミッションが耐えられないという判断で常用のリミットは8500回転。10000回転はルマンのデモランが最初で最後となり、今ではエンジンが壊れたら復元できないということで7000回転に制限されている。
なぜデモランで10000回転OKだったかというと、ミッションだけは破壊しても楽勝で手に入る((ポルシェ956/962用なので、ヒストリックカーレース需要もあり未だ取引対象にされている))からである。

-収録モデルの787Bは車体のマーキング等から、ル・マン優勝を遂げた1991年当時の仕様ではなく、現在の仕様を基にしてモデリングされた物であることが分かる。((理由は不明確だが、一部のステッカーやカラーリングが1991年当時の仕様と異なる))
また肖像権等の理由のためか、ドライバーの名前が実際と異なっている。
#endregion
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#region(派生モデルの解説)
-GT4のレア中古車で黒塗りの787Bが登場し、GT5からはそれにそっくりな[[787B ステルスモデル]]が登場している。
#endregion
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