|CENTER:BGCOLOR(#e0e6eb):60|330|CENTER:BGCOLOR(#e0e6eb):70|250|CENTER:BGCOLOR(#e0e6eb):100|140|c |>|~分類|>|>|>|~性能| |メーカー|---|PP|---(---)|全長|---mm(---mm)| |国籍|---|総排気量|---cc(---cc)|全幅|---mm(---mm)| |カテゴリ|---/---|最高出力|---/-------rpm&br;(---PS/-------rpm)|全高|---mm(---mm)| |モデル|''高品質''/簡易|最大トルク|---kgfm/-------rpm&br;(--kgfm/-------rpm)|車両重量/配分|---kg(---)/--:--| |ギャラリー|''対応''/非対応|駆動形式&br;吸気形式|---(--:--)/---|トランスミッション|-速| |>|~入手方法|>|>|>|~カスタム/チューン制限| |ディーラー|Cr.---|カスタム|>|>|ペイント:-、ホイール交換:-、エアロ装着:-| |プレゼント|---|チューン|>|>|---| //-[[GT5での「---」についてはこちら>]] //-備考はここ #region(←カラーバリエーションを表示) |>|>|>|~カラーバリエーション| |---|---|---|---| |---|---|---|---| #endregion ---- //#ref(.jpg,nolink) //#ref(.jpg,nolink) ---- -1992年からのグループCレギュレーション改正による、ロータリーエンジン使用禁止により、1991年がル・マン挑戦への最後のチャンスであると考えたマツダが前年度に参戦した787を改良したマシン。 -まさにマツダの命運を背負って18号車、55号車、56号車(うち56号車は前年度型の787を787Bのパーツで部分的に改良したもの)が1991年のルマンに出走したが、レースはメルセデス・ベンツ C11(GT6未収録)の1号車、31号車、32号車が序盤からトップ3を独占。1989年大会に続き今年もメルセデスが圧倒するかと思われた。 -しかしライバルチームにトラブルが発生。新規格車で参戦のプジョーは開始わずか2時間で全滅、旧規格マシンを持ち込んだメルセデスもスタートから10時間目に32号車がトラブルで後退。ミハエル・シューマッハ駆る31号車も13時間目にミッショントラブルを訴えて緊急ピットイン、20分を費やしてコースに戻るも5番手に後退した。これらの幸運も重なって、18番グリッドからのスタートだった55号車が大きく順位を上げ、夜には1周遅れながらも4位に付けた。 -マツダチームの車両はその後もトラブルを起こすことなく走行を続け、翌朝までにレース展開は単独トップで走行する1号車C11に続いて、旧規格車を持ち込んだ2号車のジャガーXJR12(GT6未収録)と55号車が2位争いを繰り広げる形となった。「このまま行けば少なくとも入賞は確実だ」との意見も有る中で、マツダチームはその時のスティントを担当していたジョニー・ハーバートにもう1スティント走行させるという賭けに出た(当時は2スティント走行というのはまず考えられなかった)。 -その賭けが見事成功、55号車は単独2位に浮上。さらにトップの1号車C11を追い詰めるため、マツダのアドバイザーであった元F1ドライバー、ジャッキー・イクスの『ドイツ人(トップのメルセデス陣営を指す)は必要以上にアドバンテージを求めたがる。こちらがペースを上げれば相手のエンジンに負担をかける事が可能だ』というアドバイスを受けて更にペースを上げて走り続けた。 -結果、3周先にいた1号車はこのペースアップに焦り、無茶なペースアップをしてしまう。結果エンジンの冷却系に支障をきたしリタイヤ。見事55号車は単独トップに立ち、燃費のせいでタイムを伸ばすことが出来ないジャガー陣営は後退し、サルトサーキット362周を走りきって日本車初のル・マン総合優勝を獲得。マツダワークスカラーの18号車、56号車もそれぞれ6位と8位で完走を果たし、マツダ製ロータリーエンジンの高い信頼性を見せつける結果にもなった。 --「実はメルセデス陣営はこのペースアップに惑わされず、3周の貯金を切り崩しながら走れば1位は堅持出来たんじゃないか」と後にマツダの大橋監督は語っている。 -現在でもこのクルマは『ル・マンで総合優勝を果たした唯一無二の日本車でありロータリーエンジン搭載車』として語り継がれている。 -この派手なオレンジと緑のカラーはレナウンが「マツダは勝てるはずがないだろう」という考えから、せめて目立つようにしようとした為にこのようになっていると言われている。このカラーリングはマツダ車ではレナウンがスポンサードを始めた'89年の「767B」(GT6未収録)から始まり'92年の「MXR-01」(GT6未収録)まで使用された。 -なお、MXR-01以降もマツダスピードとアメリカのコンストラクターのD.T.R.が手を組んで開発されたオープンプロトのクッズ(Kudzu)・DG-3('95)やDLM('96)にもこのカラーが使われている。 -また、このゲームに収録されている787Bはドライバーの名前が肖像権等の理由のためか実際と異なっており、さらに車体のマーキングから「本当の」ル・マン優勝車(787B-002)ではなく、後期に制作されたレストア車を基にしてモデル作成された物である。 #hr -因みにマツダ787BはIMSAクラスのレギュレーション、IMSA-GTP規定下で製作された車両である(車重830kgが証拠。グループCカテゴリー2規定下なら、最低車重が1000kgになる(1991年規定)ため、787Bは当てはまらない)。 尚、ACO及びFIAは''エンジン形式で最低重量を規定してはいない''ので、ロータリーだから830kg"は完全な間違い。ただ、交渉でIMSA-GTPクラスの最低車重を「SWCの他のイベントでは830kgだが、ルマンだけ880kgにされる」という予定を、他のSWCイベント同様の830kgに引き下げたのは確かなこと。 --この軽量ボディとロータリー特有のエンジンブレーキが利きにくいという欠点を逆手に取り、アクセルをコーナーのかなり手前からリリースして走っていたため、燃費はフルスピードで2.4km/lをマークしていた。これはグループCの1.8km/lという規定を超えていたため、今でこそ燃費規定が無いため当たり前だが、当時としては異例の24時間を常にフルスピードで走っていたとか。 -1991年の勝利から時が経ち20年後の2011年、787Bは再びジョニー・ハーバートのドライブによりサルトサーキットをデモランで走行。 ル・マン主催者からの招待によるものであったが単独車種のデモランという破格の待遇で、20万人以上の観客が集まったといわれている。このときはマツダも''レブリミット無制限''という超大盤振る舞いを行った。 詳細は[[マツダ公式サイト>http://www.mazda.co.jp/philosophy/rotary/lemans/]]を参照して欲しい。 マツダはこのデモランのために大規模なレストアを施したが、現在ではデモランをするにも慎重さを求められる難しい車。 この手の車両では常識だがワンオフ製作の部品が満載のためマツダにも在庫パーツは殆どなく、コスト面から見ても新たなオーバーホールは非常に困難と見られている。一応ボディ側や補機類は既に2回新造に近いレベルのフルレストアを行ったが、エンジン系のパーツはマツダに技術が残っていないためコストを度外視したところでワンオフすら出来ず、マシなエンジン1機と、それなりに動くエンジン1機しか残されていない。前者は55号車、後者は202号車に積まれている。 -一応エンジン本体のレブリミットは10000回転とされているが、ミッションが耐えられないという判断で常用のリミットは8500回転。今では壊れたらもう終わりという事もあり、7000回転に制限されている。 |