-総排気量:1595cc -最高出力:130ps(137ps)/6800rpm(7000rpm) -最大トルク:15.5kgfm(16kgfm)/4800rpm(4500rpm) -駆動形式:FR -全長:4070mm -全幅:1660mm -全高:1405mm -車両重量:965kg -価格:Cr.12,315,300(走行距離2955km) -Lv:0 -PP:367(373) -備考:()内の数値はリフレッシュ・OHした際のもの ---- #ref(青鳥ラリー前.jpg,nolink) #ref(青鳥ラリー後ろ.jpg,nolink) -1970年の「第18回東アフリカサファリラリー」にて総合・チーム優勝の2冠達成した。 -「ラリーの日産」のイメージを確立する。石原プロモーションにより映画『栄光への5000キロ』が制作される。なお、この映画の撮影は1969年の17回サファリの際に行われ、ゼッケン90番のロケ車が実際のラリーに出走、入賞した。ドライバーは18,19回優勝者のハーマン/シュラー組である.これは、このロケ車での活躍を日産ワークスが評価して起用したものである。 -70〜80年代にかけて、日産はその過酷さではWRC随一といわれてきた東アフリカサファリ・ラリーで4連続優勝を含む7度の優勝を挙げ、“ラリーの日産”といわれるほど、その活躍は目覚しいものがあった。 -こうした栄光の歴史を誇った日産のサファリ挑戦は、312ブルーバードによってWRC以前の63年からスタートしたが、参戦当初は市販車の耐久テスト的な意味合いも強かった。 -マシンは2年目に2代目の410ブルーバードにスイッチし、回を重ねるごとにマシンは熟成されてトップを争う一線級のマシンへと成長を遂げていった。 -66年には総合5位を獲得するなどして次第に頭角を現し、日産もトップチームの一員として認められるようになる。 -こうした躍進の時期に、その3代目としてサファリに投入されたのが510ブルーバードであった。 510はスーパーソニック・ラインという70年代を暗示させる斬新なデザインを持って67年の8月に登場したが、三角窓を廃したという外観だけではなくその中身も斬新だった。 注目したいのは、サスペンションだ。410までの、フロント/ダブルウィッシュボーン、リア/リーフリジッドという旧態化した方式を、510ではフロント/マクファーソン式ストラット、リア/セミトレーリングアームの四輪独立懸架したこと。 -ラリーにおいては、これが余裕あるサスペンションストロークをもたらし、サファリなどの極悪ダートでの走破性の向上をもたらすことになる。 -そして次に注目したいのはエンジンで、510には新たに開発されたOHCのL型が採用されたのだ。そのスポーツモデルたる1600 SSSには、83.0×73.7mmのボア&ストロークを持つ1595ccのL16型が搭載され、これがサファリ仕様のベースとなった。 -まず68年に日本人の社員クルーによるテスト参戦が行われ、69年から4台の510が本格的に投入された。 -こうして510は、強化サスペンションで最低地上高を高めにし、フェンダー上のウイングランプ、泥濘地から脱出するためのリア・バンパーのステップなど、サファリ独特の装備を取り付け、フォードやプジョーなどのワークスマシンと遜色ないほど精悍なスタイルを持ってサファリに登場した。 -エンジンはノーマルのSUツインキャブレターをソレックス44PHHに換装し、130馬力を発揮する強力な仕様となった。 -こうして69年は総合3、5、7、8位を獲得してクラス優勝とメーカーチーム賞を獲得し、総合優勝したフォード・タウナスに迫る勢いを見せる。 -そして70年サファリ。4台の510は、フォード・エスコートRS1600、プジョー404、ポルシェ911らを相手に果敢な戦いを挑む。 -終盤にはポルシェとの一騎打ちとなったが、ポルシェがマシントラブルから脱落。 -耐久性に秀でた510がトップに浮上し、ハーマン/シュラー組がそのままトップを守りきって日産車初優勝を飾った。 -63年の初挑戦から8年目の栄誉だったが、これがその後サファリで連勝する日産の第一次黄金期の幕開けだった。 -70年、生産車の510には1800ccバージョン/1800 SSSが登場するが、サファリ参戦はフェアレディZにバトンタッチされ一線から退いた。 -しかし、四輪独立懸架やL型エンジン熟成のノウハウはZに受け継がれ、ラリーに有用な4ドア車によるマシン造りは後のPA10バイオレットに踏襲された。 -わずか2年だけの本格参戦であったが、「ラリーの日産」を築き上げた記念すべきマシンとして510の果たした役割は大きい。 ---- |