固有武将 のバックアップ(No.3) - 戦国無双4 Empires 攻略Wiki

 

固有武将 のバックアップ(No.3)



概要 Edit

Empiresで新たに追加された、固有武将の一覧。
計88人であり、通常版の特定武将10人、4-IIのアニメ逆輸入武将2人を合計すると丁度100人となる。

戦場策:武将が敵として登場したときに使用する戦場策。
血縁:親を配下にしていれば元服時に士官してくれる。
   例外は親が敵勢力におらず親族が仕官している場合は、親族の国に仕官する。
   条件が同じ場合は武将列伝の数字が若い武将の国に仕官する(例:真田信之よりも真田幸村の国に仕官する)。

一覧表 Edit

武将名武器戦場策登場年血縁備考
赤井直正1544丹波の豪族。
「丹波の赤鬼」の二つ名を持つ猛将であり、織田家の名将・明智光秀の猛攻をも退けた。
「青鬼」籾井教業は一般武将。
秋山信友騎馬隊突撃・壱1542武田家臣。二十四将の一。
東美濃攻略で活躍したが、降伏後信長に裏切られ処刑された。
明智秀満1551明智光秀明智家臣。通称・左馬介。
本能寺の変では先鋒を務めるなど光秀から高い信頼を受けた。
降伏の際、光秀の宝物類を敵陣に譲り渡したことでも知られる。
朝比奈泰朝1553今川家臣。
桶狭間の戦いの後の衰運著しい主家を支えた忠臣。
作中では何よりも蹴鞠を愛する主君・今川親子に「ダメだ、ダメすぎる…」と嘆く姿が印象的。
足利義昭1552足利義輝足利幕府第十五代将軍。
織田信長に擁立されて就任するが、自身を利用する信長に反発。
各地の大名を糾合し、信長包囲網を形成した。
足利義輝1551足利幕府第十三代将軍。
「剣豪将軍」の異名を持つ剣客でもあり、衰退著しい幕府再興を志すも松永久秀らに謀殺された。
蘆名盛氏1536針生盛信陸奥蘆名氏第十六代当主。
蘆名氏最盛期の当主として各地の合戦に介入した。
蘆名盛隆1576陸奥蘆名氏第十八代当主。
十七代当主・盛興が早世したため盛氏の養子となったが、寵臣の凶刃に倒れた。
尼子晴久1529尼子経久出雲の戦国大名。
毛利元就と一進一退の攻防を繰り広げたほか、家内の統一と安定に腐心した。
荒木村重1550摂津の豪族。利休七哲の一。
織田信長に降伏後、有岡城で造反。説得に来た黒田官兵衛を幽閉したことで知られる。
安藤守就1518美濃三人衆の一。
織田家臣として活躍するが、後に追放される。
本能寺の変に乗じて失地回復を図るが、同じ三人衆の稲葉一鉄に討たれた。
磯野員昌1549浅井家臣。
姉川の戦いでは「十一段崩し」の猛攻を行った猛将である。
一条兼定1558土佐一条家最後の大名。
長宗我部元親と土佐の覇権をかけて争うがことごとく敗戦。
「性質軽薄にて、人の諫言を顧みなかった暗愚な人物であった」とされており、
忠臣・土居宗珊を無実の罪で殺してしまった為、家臣の信望を失って追放された。
その後、大友宗麟の後援を得て旧領回復を企てるが失敗した。
伊東義祐1527日向の戦国大名。
島津氏と争うも木崎原の地で大敗。後に流浪の身に落剝した。
稲葉一鉄1530美濃三人衆の一。
「頑固一徹」の由来となった頑固者であり、織田・豊臣政権に忠義を尽くした。
今川氏真1553今川義元駿河今川家第十代当主。今川義元の子。早川殿の夫。
桶狭間で父・義元亡き後の今川家を統制することが出来ず、北条・徳川に庇護された。
後世では文化人・蹴鞠人として名高いが、新当流の剣豪でもあり武勇にも優れた。
宇喜多直家炮烙兵急襲・弐1544備前の戦国大名。
戦国有数の暗殺術で下剋上を果たした梟雄であり、実弟の忠家ですら彼に会う時は帷子を着込んでいたという。
宇喜多秀家1587宇喜多直家豊臣五大老の一。宇喜多直家の子で、豊臣秀吉の養子となる。
関ヶ原では西軍の雄として活躍するが、敗戦後に八丈島へと流刑となった。
貴公子然とした肖像画が現存しており、戦国有数の美男として知られる。
氏家卜全1527美濃三人衆の一。
伊勢長島の一向一揆討伐で討死。
宇都宮広綱1560下野の戦国大名。
忠臣・芳賀高定の庇護を受けて旧領回復に成功したが、終生病に苦しんだ。
浦上宗景1541備前の戦国大名。
備前統一に邁進するが、宇喜多直家の裏切りに遭い播磨に逃亡した。
遠藤直経1546浅井家臣。
浅井長政に無二の忠誠を誓い、信長に対して警戒を緩めなかった。
本シリーズでも、浅井家臣の代表として度々登場している。
太田資正炮烙兵急襲・弐1537武蔵の土豪。通称・三楽斎。
北条市に降伏した後に造反し、各地の反北条勢力と協力し転戦した。
日本史上初めて軍用犬を実戦に用いた将としても知られる。
大友宗麟鉄砲隊急襲・弐1545豊後の戦国大名。
二階崩れの変の後に家督を継ぎ北九州に覇を唱えたが、切支丹への過剰な傾斜が人心の離反を招いた。
宗教関係の話題が不可避であるためか、本編にはあまり登場しない。
岡部元信1542今川家臣。
桶狭間では最後まで抵抗を続け、今川家滅亡後は武田家に仕え、徳川家康を度々苦戦させている。
小川祐忠1562豊臣家臣。
関ヶ原の戦いでは小早川秀秋らと共に寝返り、大谷吉継隊の勇将・平塚為広を討ち取る功をあげたが、予め約束された内応でなかったので、結局戦後に改易された。
余談だがその平塚為広は史実での勇猛さとはかけ離れた声タイプなのが残念。
織田信雄1573織田信長織田信長の次男。
小牧長久手の戦いでは徳川家康と同盟を組むが、独断で秀吉と講和。家康の孤立を招いてしまった。
織田信忠鉄砲隊急襲・弐1572織田信長織田信長の嫡男。
松永久秀討伐や武田討伐で着実に後継者の地位を固めるが、本能寺の変では二条城で父の後を追った。
小野鎮幸1561立花家臣。四天王の一。
日本七槍に数えられた武辺者として知られる。
甲斐宗運1530阿蘇家臣。
終生阿蘇氏に忠節を誓い、旧友・相良義陽を討った。
柿崎景家1528上杉家臣。
軍事・外交に大車輪の活躍をした上杉家臣の筆頭格。
片倉重長騎馬鉄砲突撃1599片倉小十郎伊達家臣。片倉小十郎(景綱)の子。
大坂の陣では猛将・後藤又兵衛を討ち、「鬼の小十郎」の異名をとる。
真田幸村の遺児・守信や娘・阿梅を庇護している。
可児才蔵1569首級に目印として笹を挿したことから、「笹の才蔵」の異名をとった豪傑。
その武勇で主家を転々とした後、福島正則に仕えた。
上泉信綱1523「剣聖」の異名を持つ戦国最高の剣豪。
各地を放浪し、柳生石舟斎や宝蔵院胤栄ら多くの弟子を育成した。
蒲生氏郷大太刀鉄砲隊急襲・弐1571織田家臣。信長の娘・冬姫を娶った。
利休七哲の一人であり、文武に多くの逸話を残した名将。
吉川元春大太刀1545毛利元就毛利元就の次男。
武に秀で毛利家の数多くの合戦で不敗の活躍をした。
弟の小早川隆景とは「両川体制」を築き、甥の輝元を支えた。
木村重成大太刀1608豊臣家臣。
秀頼の寵臣として大坂の陣で活躍。
その首級には香が焚き込めてあったという。
九鬼嘉隆1557織田家臣。
伊勢水軍を率いた「海賊大名」であり、鉄甲船で毛利水軍を圧倒した。
黒田長政大太刀1583黒田官兵衛黒田官兵衛の嫡子。
父が有岡城に幽閉された際、竹中半兵衛に匿われて生き長らえた。
関ヶ原の戦いでは小早川秀秋の内応を取り付け、東軍の武功筆頭とされた。
高坂昌信大太刀騎馬隊突撃・壱1542武田家臣。四名臣の一。
「逃げ弾正」と称された軍略家であり、川中島の戦いでは要衝・海津城の守備を務めた。
長篠の戦いの後は四名臣最後の生き残りとして武田家の維持に尽力。
河野通宣1542伊予の戦国大名。
毛利家と同盟を結び、長宗我部元親の伊予侵攻に抵抗した。
小西行長1573豊臣家臣。石田三成と並ぶ文治派の雄。
肥後の切支丹大名として加藤清正とは不倶戴天の仲であった。
後藤又兵衛1575黒田家臣。
黒田長政とはそりが合わず、出奔後は奉公構を受けた。
後、大坂の陣では大坂方五人衆の一人として活躍。
小早川秀秋大太刀1597豊臣秀吉ねね(北政所)の甥。後に豊臣秀吉夫妻、次いで小早川隆景の養子となる。
関ヶ原の戦いでは東軍に内通し勝敗を決定づけたが、戦後間もなくして急死。
その死は大谷刑部の祟りとも噂された。
斎藤利三1549明智家臣。美濃斎藤氏の一族とも。
山崎の戦いでは先鋒を務めるも、敗北後刑死した。
彼の孫娘・福が徳川幕府三代将軍家光の乳母・春日局である。
斎藤義龍忍者隊急襲・弐1542斎藤道三美濃の戦国大名。斎藤道三の嫡子であり、濃姫の兄。
長良川の戦いで父・道三を討ち下剋上を果たした。
酒井忠次大太刀鉄壁・弐1542徳川家臣。四天王の筆頭。
徳川家臣団の最長老であり、家康の合戦の多くに参加し、功績を挙げている。
榊原康政1563徳川家臣。四天王・三傑の一。
本多忠勝とは同年の友人であり、多くの戦で肩を並べた。
徳川家を代表する能筆家であり、秀吉討伐の檄文を著したとされる。
相良義陽1559相良晴広肥後の戦国大名。
島津家に降伏したのち、彼の畏友・甲斐宗運に敢えて討たれたとされる。
佐竹義昭1546常陸の戦国大名。佐竹氏十七代当主。
常陸統一を目指し周辺諸侯と鎬を削った。
佐竹義重大太刀騎馬隊突撃・壱1562佐竹義廉常陸の戦国大名。佐竹氏十八代当主。
「坂東太郎」の異名を持つ猛将であり、伊達や北条と大いに争った。
佐竹義宣1585佐竹義廉常陸の戦国大名。佐竹氏十九代当主。
「困ったほどの律義者」と家康に評された人物であり、恩人の三成に協力。
里見義堯1522安房の戦国大名。
房総半島に勢力を拡大し、里見家の全盛期を築いた。
古の聖王・堯の名を冠するに相応しい仁君だったとされる。
里見義頼炮烙兵急襲・弐1558里見義堯安房の戦国大名。義堯の子。
外交の才に優れ、北条への対抗策として武田家、次いで豊臣家に接近した。
真田昌幸大太刀鉄壁・弐1562真田幸隆北信濃の戦国大名。真田信之・幸村兄弟の父。
武田信玄の近侍として成長し、武田家滅亡後は独立し周辺諸侯の間で真田家存続を図る。
「表裏比興」と称された謀略の才は、徳川家康すら恐れさせたという。
真田幸隆忍者隊急襲・弐1528北信濃の豪族。昌幸の父。
戸石崩れで大敗を喫した武田信玄に接近し、謀略で戸石城を攻略。
信玄に絶賛され、真田家の事実上の祖となった。
島津家久鉄砲隊急襲・弐1562島津貴久島津家四兄弟の末弟。島津豊久の父。
軍略に優れ、沖田畷や戸次川での島津の大勝に大きく貢献。
戦後に急死し、暗殺の風聞が残る。
島津歳久鉄砲隊急襲・弐1552島津貴久島津家四兄弟の三男。島津義弘の弟。
知略に優れ、兄・義久の軍師として活躍。
梅北一揆の責任のため追討されることとなった。
島津義久鉄砲隊急襲・弐1548島津貴久島津家四兄弟の長男。島津義弘の兄。
政略に優れ、島津の九州統一を当主として指揮。
島津家が豊臣に降伏した後は主家存続に奔走。
清水宗治大太刀1552毛利家臣。
水攻めを受けた備中高松城の降伏の際に切腹し、秀吉から大いに称賛された。
仙石秀久大太刀1567豊臣家臣。通称・権兵衛。
戸次川の大失態で長宗我部信親らを討死させた責から改易。
後、小田原征伐で失地回復に成功した。
太原雪斎1511今川家臣。今川義元の師。
甲相駿三国同盟の締結など今川家の政治に多大な功績を挙げた。
彼が存命ならば桶狭間の大敗は無かったとも言われる。
滝川一益大太刀1540織田家臣。四天王の一。前田慶次とは同族。
各地を転戦し関東を攻略するが、本能寺の変後の混乱のため神流川の合戦で敗北し事実上失脚。
所領よりも茶器の珠光小茄子を求めたという。
武田信繁騎馬隊突撃・壱1540武田信虎武田信玄の弟。通称・典厩。
兄・信玄の副将として活躍するが、川中島の合戦で壮絶な最期を遂げた。
彼の諱は、信玄の近侍であった真田昌幸の次男の諱としても残っている。
立花道雪1528大友家臣。立花誾千代の父。
落雷で半身不随となったことから「雷神」と称された名将。
高橋紹運と共に衰運著しい大友家を最後まで支えた。
伊達成実騎馬鉄砲突撃1583伊達晴宗伊達家臣。
「智の小十郎」こと片倉小十郎と並び、「武の成実」と並び称された伊達家を代表する闘士。
「毛虫」を象った前立でも名高い。
伊達輝宗騎馬隊突撃・弐1559伊達晴宗奥州伊達氏十六代当主。伊達政宗の父。
右目を病で失い苦しむ嫡子・政宗に多大な恩愛と教育を施した人格者。
後、二本松義継に拉致された際、彼もろとも政宗に射殺された。
伊達晴宗騎馬鉄砲突撃1534奥州伊達氏第十五代当主。伊達政宗の祖父。
父・稙宗との御家騒動「天文の乱」を起こした。
長宗我部信親大太刀一領具足1580長宗我部国親長宗我部元親の嫡子。
将来を嘱望されたが、戸次川の戦いで勇戦した末討死。
彼の不慮ともいえる討死は、父・元親のみならず長宗我部家その物を暗転させた。
津軽為信忍者隊急襲・弐1565弘前藩初代藩主。
南部晴政の死後に独立を図り造反した後、豊臣家に接近し本領安堵を果たした。
このため南部家との確執は根深く、現代にも痕跡が残っている。
戸沢盛安大太刀騎馬隊突撃・参1581出羽の大名。
安東愛季の子で猛将として知られる秋田実季を負かし、「夜叉九郎」の異名をとった傑物。
小田原征伐で秀吉に謁見した後、若くして急死した。
富田長繁1567朝倉家臣。
朝倉家滅亡後は織田家に仕えるが、一揆を煽動し造反。
自身もまた裏切られて惨死を遂げた。
豊臣秀長1555豊臣秀吉豊臣秀吉の弟。放浪時代の藤堂高虎の主であり恩人。
人格に優れ、親族の層の薄い豊臣政権の柱石として大きな存在感を示した。
彼の急死から、豊臣政権の暗転は始まることとなる。
4-IIではNPCながら印象的な活躍を示した。
鳥居元忠鉄壁・弐1554徳川家臣。
主君の家康に終生絶対の忠誠を誓い、関ヶ原の戦いでは伏見城で玉砕。
「三河武士の鑑」と称された。
内藤昌豊騎馬隊突撃・壱1537武田家臣。四名臣の一。
武田信繁に次ぐ武田家の副将格であり、多くの戦で重要な小荷駄隊を指揮した。
長野業正1506山内上杉家臣。
箕輪城城主として武田信玄の侵攻を度々食い止めた。
「彼が生きている限り、上野には手は出せぬ」と信玄は嘆いたという。
南部晴政騎馬隊突撃・壱1532陸奥の戦国大名。
「三日月の 丸くなるまで 南部領」と詠まれた程の勢力を築いた名将。
『天翔記』の南部騎馬隊の猛威は今なお語り草である。
丹羽長秀鉄砲隊急襲・弐1550織田家臣。四天王の一。
「米五郎左」の異名を持つ、織田家に欠かせない人物。
信長の統治の象徴である、安土城築城にも携わった。
畠山義綱1551畠山義続能登の戦国大名。
領内の集権化を図るが、家臣団の反抗により追放された。
波多野秀治1564波多野宗高丹波の戦国大名。
一度は織田家に服するが造反。明智光秀の軍勢に敗れた。
蜂須賀小六鉄砲隊急襲・弐1541豊臣家臣。木下藤吉郎時代から秀吉に仕えた、豊臣家臣団の最長老。
軍記物に描かれた、矢作橋での出会いから野盗の親分としてのイメージが強いが、
実際には同地の土豪であった。
馬場信房騎馬隊突撃・壱1529武田家臣。四天王の一。
「不死身の鬼美濃」の異名を持つ勇者であると同時に、
今川の財宝を焼き捨てて家名を守ろうとした高潔なる士。
日根野弘就槍1533斎藤家臣。
斎藤滅亡後は流浪し各地の諸侯に仕えるが、度々主家滅亡の憂き目に遭うことになった。
鎧兜の研究者としても知られるが、彼と言えばその壮絶な自刃が有名。
北条早雲1447(後)北条家初代当主。北条氏康の祖父。
伊豆韮山を拠点に東国で下剋上を果たし、戦国時代の幕開けを飾った。
登場年代から本編には直接は登場出来ない人物でため、このような形となった。
『信長の野望』シリーズでは、太田道灌・尼子経久と並ぶゲスト武将の常連である。
北条綱成1530北条早雲北条家臣。五色備の一・黄備え。
北条氏綱の娘を娶り、一門に迎えられた。
「地黄八幡」の異名を持つ家中随一の猛将。
細川忠興1578細川藤孝細川藤孝の嫡子。(細川)ガラシャの夫。
利休七哲に数えられる文化人だが、ガラシャへの偏愛ぶりでも色々な意味で名高い。
作中でのガラシャからの呼ばれ方から、「婿殿」の綽名が内外で定着している。
細川藤孝1549織田家臣。号は幽斎。
古今伝授を受けた当代一の教養人であり、その技芸の豊かさを語る逸話には事欠かない。
堀秀政1568堀直政織田家臣。
信長の横死後は秀吉に仕えた。「名人久太郎」の異名を持つ知勇兼備の将。
真柄直澄1553真柄直隆朝倉家臣。直隆の弟。
兄と同じく大太刀を振るう勇武の士であるが、姉川の戦いで討死。
真柄直隆1551朝倉家臣。直澄の兄。
「太郎太刀」と呼ばれる大太刀を振った豪傑であるが、姉川の戦いで討死。
三好長慶1538三好康長阿波・摂津の戦国大名。
足利将軍家を追放し畿内に一大勢力を築くが、松永久秀の暗躍に苦しんだ。
三好政康1543三好長慶三好家臣。三好三人衆の一。
長慶の死後、松永久秀との内紛を制すが織田信長に敗れた。
後、大坂の陣に参陣した三好清海(同名の真田十勇士のモデル)が彼であるという。
三好義継1564三好長慶三好長慶の甥。
長慶の死後、松永久秀と組んで三人衆と対峙。
村上武吉1548瀬戸内の水軍・村上水軍の首領。
小早川隆景に従い、厳島の合戦などで活躍した。
村上義清1516北信濃の豪族。
武田信玄を二度まで退けるが真田幸隆の謀略により敗北、越後の上杉謙信を頼った。
これが川中島の戦いの遠因となる。
毛利勝永大太刀1592豊臣家臣。
大坂の陣では五人衆の一人として活躍。
落城時は主君・秀頼の介錯を務めた後、主に殉じた。
毛利隆元1538毛利元就毛利元就の嫡子。
父や弟二人に比べると目立たないが、財政や人物面で毛利家を確かに下支えした。
彼が急死した後、毛利家は急速にその勢いを失っていく。
毛利輝元1568毛利元就毛利隆元の嫡子。
叔父の元春・隆景に支えられて毛利家の存続に尽力した。
だが、二人亡き後の関ヶ原の戦いで毛利家率いる西軍は東軍に敗れ、服属への道を歩むこととなる。
最上義守忍者隊急襲・弐1536出羽の戦国大名。義光の父。
伊達家の介入で混乱した家内をまとめ上げていくが、子の義光とは再び家督を巡る争いになってしまった。
母里太兵衛1571黒田家臣。八虎の一。
民謡「黒田節」に謳われた、福島正則から名槍「日本號」を呑み取った逸話で知られる。
森長可1573森可成織田家臣。森蘭丸の兄。
「鬼武蔵」の異名を持つ豪傑であり、得物「人間無骨」を振るい活躍したが小牧長久手で敗死。
残虐な戦い方に関する逸話も多く、戦国最狂の狂戦士とも評される。
山内一豊大太刀1561織田家臣。
妻・千代の内助の功で出世をしたことで知られる。
山県昌景騎馬隊突撃・参1544武田家臣。四名臣の一。
戦国最強・武田騎馬軍団の最精鋭「赤備え」の指揮官。
4-IIでは豊臣秀長と同様、NPCながら印象的な活躍を示した。
山中鹿介大太刀1560尼子家臣。
主家再興を目指し悪戦苦闘を続けたが、吉川元春に討たれた。
三日月に「七難八苦を与え給え」と願をかけた逸話は戦前の教科書にも記載された逸話である。
山本勘助騎馬隊突撃・壱1508武田家臣。
信玄の軍師として川中島の合戦では「啄木鳥戦法」を考案するが、見破られた責を取り敗死した。
結城秀康1589徳川家康徳川家康の次男。三名槍の一・御手杵の持ち主。
父から嫌われ、羽柴秀吉の養子、後には結城晴朝の婿養子となった。
徳川家よりも豊臣家に縁深く、石田三成から遺品代わりの刀を拝領している。
由布惟信1542立花家臣。四天王の一。雪下。
七十余りの感状を賜った歴戦の忠臣であるほか、立花宗茂に厳しい教育を施したことで知られる。
渡辺守綱1557徳川家臣。
「槍の半蔵」の異名を持つ武辺者であり、「鬼の半蔵」服部半蔵とは好一対で語られる。

特定武将 Edit

武将名武器戦場策登場年血縁備考
朝倉義景大太刀鉄砲隊急襲・弐1548朝倉宗滴
上杉景虎領民同心・弐1569北条早雲
斎藤龍興騎馬隊突撃・壱1563斎藤道三
陶晴賢忍者隊急襲・弐1536
高橋紹運騎馬隊突撃・弐1563
武田勝頼騎馬隊突撃・弐1561武田信虎
徳川秀忠鉄砲隊急襲・弐1594徳川家康
豊臣秀頼鉄砲隊急襲・弐1608豊臣秀吉
鍋島直茂騎馬隊突撃・弐1553
弘中隆包騎馬隊突撃・壱1536
最上義光大太刀炮烙兵急襲・弐1561最上義守
龍造寺隆信騎馬隊突撃・弐1544

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