真田幸村【壮年期】(サナダユキムラ【ソウネンキ】) Edit

p02m.jpg使用武器十文字槍
解放条件第十四章
「今福の戦い」クリア
CV(声優)草尾毅
別名日の本一の兵

紹介 Edit

「負けられぬ、戦いがある」

大坂城において、
豊臣方の要であるもののふ。
関ヶ原の戦い後、
九度山で蟄居生活を経て、
武芸だけではなく軍略に熟達した
武者となった。
「真田丸」と呼ばれる出丸を築き、
徳川軍を撃退、家康の目前にまで
迫ったその武勇は後世に語り
継がれている。

アクションタイプ Edit

チャージ攻撃(改)

茶屋解放条件 Edit

第十四章 開始後

ステータス Edit

能力名体力攻撃防御馬術敏捷
初期値14090909588
最大値328282280293273

人物像 Edit

  • 慶長5年(1600年)9月15日、
    西軍は秀忠率いる主力の到着以前
    に関ヶ原で敗北を喫する。
    昌幸と信繁は本来ならば、
    敗軍の将として死罪を
    命じられるところだったが
    徳川方に味方した兄・信之と
    その舅である本多忠勝の
    取り成しがあって、
    高野山配流を命じられるに
    とどまり、12月12日に
    上田を発して紀伊に向かう。
    初め高野山にある蓮華定に
    入り、次いで九度山に移った。
  • 慶長19年(1614年)、
    方広寺鐘銘事件をきっかけに
    徳川氏と豊臣氏の関係が
    悪化する。
  • 大名の加勢が期待できない
    豊臣家は浪人を集めることに
    なり、九度山の信繁の元にも
    使者を派遣した。
    この時、父昌幸は既に
    亡くなっており、父の旧臣
    達に参戦を呼びかけ入城した。
    信繁の率いた軍は、
    鎧を赤で統一していたという。
  • 慶長19年(1614年)の
    大坂冬の陣では、
    信繁は当初から大坂城籠城案
    に反対していたが、浪人衆は
    賛成を表明するが、
    結局受け入れられずに終わる。
    大坂城への籠城策が決定すると、
    信繁は大坂城の最弱部とされる
    三の丸の南側に真田丸と
    呼ばれる土作りの出城を築き
    敵を撃退した。
  • 冬の陣の講和後、真田丸は
    両軍の講和に基づき、堀の
    埋め立ての際に、取り壊
    されてしまう。
  • そして豊臣方の弱体化を
    はかる為、家康は慶長20年
    (1615年)2月に信繁の元へ
    使者を派遣し、「信濃一国を
    与えるので、徳川方へ
    寝返るように」と説得したが、
    信繁は「秀頼様には恩があり、
    例え日本の半分を頂ける
    としても、私の気持ちは
    変わりません。」と答えた
    という。
  • 慶長20年(1615年)の
    大坂夏の陣では、道明寺の
    戦い(5月6日)に参加。
    5月7日、信繁は最後の作戦を
    立案し、四天王寺・茶臼山に
    布陣し、徳川家康の本陣
    へめがけて突撃することになる。
  • 目前まで迫る信繁の勇士を
    見た家康は彼のことを
    日の本一の兵と称えたという。

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