#contents ---- *真田幸村【壮年期】(サナダユキムラ【ソウネンキ】) [#p88b0dd1] |~|CENTER:75|CENTER:175|c |&ref(???/p02m.jpg,nolink,zoom,225x260);|~使用武器|[[十文字槍]]| |~|~解放条件|第十四章&br;「今福の戦い」クリア| |~|~CV(声優)|草尾毅| |~|~別名|日の本一の兵| ---- **紹介 [#r4b48366] >''「負けられぬ、戦いがある」''&br; 大坂城において、 豊臣方の要であるもののふ。 関ヶ原の戦い後、 九度山で蟄居生活を経て、 武芸だけではなく軍略に熟達した 武者となった。 「真田丸」と呼ばれる出丸を築き、 徳川軍を撃退、家康の目前にまで 迫ったその武勇は後世に語り 継がれている。 **アクションタイプ [#m8fe1518] チャージ攻撃(改) **茶屋解放条件 [#v643f07d] 第十四章 開始後 **ステータス [#tf509523] |~能力名|~体力|~攻撃|~防御|~馬術|~敏捷|h |CENTER:100|CENTER:50|CENTER:50|CENTER:50|CENTER:50|CENTER:50|c |~初期値|140|90|90|95|88| |~最大値|328|282|280|293|273| **人物像 [#j56d267e] -慶長5年(1600年)9月15日、 西軍は秀忠率いる主力の到着以前 に関ヶ原で敗北を喫する。 昌幸と信繁は本来ならば、 敗軍の将として死罪を 命じられるところだったが 徳川方に味方した兄・信之と その舅である本多忠勝の 取り成しがあって、 高野山配流を命じられるに とどまり、12月12日に 上田を発して紀伊に向かう。 初め高野山にある蓮華定に 入り、次いで九度山に移った。 -慶長19年(1614年)、 方広寺鐘銘事件をきっかけに 徳川氏と豊臣氏の関係が 悪化する。 -大名の加勢が期待できない 豊臣家は浪人を集めることに なり、九度山の信繁の元にも 使者を派遣した。 この時、父昌幸は既に 亡くなっており、父の旧臣 達に参戦を呼びかけ入城した。 信繁の率いた軍は、 鎧を赤で統一していたという。 -慶長19年(1614年)の 大坂冬の陣では、 信繁は当初から大坂城籠城案 に反対していたが、浪人衆は 賛成を表明するが、 結局受け入れられずに終わる。 大坂城への籠城策が決定すると、 信繁は大坂城の最弱部とされる 三の丸の南側に真田丸と 呼ばれる土作りの出城を築き 敵を撃退した。 -冬の陣の講和後、真田丸は 両軍の講和に基づき、堀の 埋め立ての際に、取り壊 されてしまう。 -そして豊臣方の弱体化を はかる為、家康は慶長20年 (1615年)2月に信繁の元へ 使者を派遣し、「信濃一国を 与えるので、徳川方へ 寝返るように」と説得したが、 信繁は「秀頼様には恩があり、 例え日本の半分を頂ける としても、私の気持ちは 変わりません。」と答えた という。 -慶長20年(1615年)の 大坂夏の陣では、道明寺の 戦い(5月6日)に参加。 5月7日、信繁は最後の作戦を 立案し、四天王寺・茶臼山に 布陣し、徳川家康の本陣 へめがけて突撃することになる。 -目前まで迫る信繁の勇士を 見た家康は彼のことを 日の本一の兵と称えたという。 *コメント欄 [#h9a2b192] #pcomment(,20,reply,) |