分類 | 性能 |
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メーカー | アイルトン・セナ | 総排気量 | 1,492cc | PP | 898 | 国籍 | PDI | 最高出力 | ---PS/--- (1013PS/11,000rpm) | 全長 | ---mm | カテゴリ | フォーミュラカー/FIA-フォーミュラ1 | 最大トルク | ---kgfm/--- (68.0kgfm/9,500rpm) | 全幅 | ---mm | モデル | 高品質 | 駆動形式 | MR | 全高 | ---mm | ギャラリー | 対応 | 吸気形式 | TB | 車両重量 | ---kg(540kg)/50:50 | 内装 | 再現 | PWR | 0.53kg/PS | TM | 5速 | 入手方法 | カスタム/チューン制限 |
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ディーラー | Cr.300,000,000 | カスタム | ペイント:不可、ホイール交換:不可、エアロ装着:可 | プレゼント | アイルトン・セナ トリビュート | チューン | 全項目チューン不可 |
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カラーバリエーション |
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チーム名有り | チーム名無し(広告規制仕様) | --- | --- | --- |
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- チーム・ロータスが1985年シーズンのF1世界選手権に投入したマシン。
ドライバーは11号車がエリオ・デ・アンジェリス、12号車がアイルトン・セナであり、収録モデルは後者にあたる。
セナが2勝・7PP(シーズン最多)、デ・アンジェリスが1勝・1PPを挙げ、この年のチームランキング4位に食い込んだ。
セナが2勝・7PP(シーズン最多)、デ・アンジェリスが1勝・1PPを挙げ、この年のコンストラクターズランキング3位に食い込んだ。
- タバコ広告規制のため、JPSのロゴが変更されている(John Player Special→Team Lotus Special)。
またJPSのロゴを月桂樹に置き換えたカラーリングはタバコ広告規制国で開催されたレースで実際に使用されたものである。
- 実車はHパターン5速MTであるが、コクピットのセナは何故かシーケンシャルMTのシフト操作をしている。
- GT6ではエアロパーツの交換が可能であり、アップデート仕様の再現が可能になっており、組み合わせ次第でモナコGP仕様等にすることも出来る。
- 本作ではエアロパーツの交換が可能であり、アップデート仕様の再現が可能になっていることから組み合わせ次第でモナコGP仕様等にすることもできる。
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| | その後のセナ
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- その後、セナは65PP(歴代3位)の記録とマクラーレンで2度のドライバーズチャンピオンシップを獲得。
特に88年は16戦中15勝という歴史をアラン・プロストと共に創った。
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| | チーム・ロータスについて
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- コーリン・チャップマンが1958年に興したレーシング・コンストラクター。
F1において7度のコンストラクターズ・タイトル(1963, 1965, 1968, 1970,1972, 1973, 1978)と6回のF1チャンピオン(1963, 1965, 1968, 1970,1972, 1978)を輩出した。
- なお、2010.2011年にロータスの名称で参戦したチーム(後のケータハムF1)と2012年よりロータスを名乗るコンストラクター(元トールマン-ベネトン-ルノー)とは分けて扱われる場合が多い。
- 87年は中嶋悟とコンビを組んだことでも知られる。
またその年から92年までホンダエンジンとコンビを組んだ。
87年のイタリアGPで翌年のマクラーレンに移籍が決定。93年まで在籍した。
- 1960年代にモノコック構造のシャーシを導入したり、フォードDFVエンジンをいち早く使用、サイドラジエーター型のクサビ型ボディの導入など先鋭化な技術を用いて長らく上位チームに君臨、特に1977年のグランド・エフェクト技術を採用したロータス・78は他チームも相次いで模倣するほどでF1車両の技術革新に大きな影響を与えていた。これ以降、グランド・エフェクト技術に頼るロータスはアクティブ・サスペンションの開発に取りかかるが成果が出ず(実戦に投入されることはなく)、1982年シーズンを持ってグランド・エフェクトカーが禁止になると1983年シーズンは未勝利(コンストラクターズランキング8位)になるまで転落。また1983年シーズンからは長年使用してきたフォードDFV(V8 NA)と決別し、ルノーからV6ターボエンジンを供給を受けたがルノーエンジンの信頼性不足およびグランド・エフェクト技術の禁止により失われたグリップ力を得る代替え技術の開発がうまく行かなかったことにより1983年以降2シーズン勝利はなかった(1984年シーズンはそれなりの速さは取り戻しつつありコンストラクターズランキング3位まで上昇するも未勝利)。本車両が投入された1985年シーズンは、上記にあるようにシーズン3勝を上げ、フェラーリやホンダエンジンを積むウイリアムズに対抗できるレベルまでの速さを取り戻していたが、相変わらずルノーエンジンの信頼性に慢性的に悩まされていた。そのためロータスは別のメーカーのエンジンの獲得に動いていて、1987年シーズンに中嶋悟を起用することを条件にホンダエンジンを獲得することとなるが、再びアクティブサスペンス開発に乗り出して実戦に投入したが失敗しモナコGPとアメリカGPの2勝に終わり(アメリカGPがロータスにとって最後のF1勝利でもある)、呆れたA・セナは翌1988年シーズンからマクラーレンに移籍することになってしまう。以降は1988年シーズンをもちホンダエンジンの供給を打ち切られると中堅争いは愚か下位を争うチームになってしまい、1991年シーズンはメインスポンサー(キャメル)も離れチームは存亡の危機に立たされる。そんなロータスのスポンサーに複数の日本企業(プラモデルで有名なタミヤ、『F1サーカス』シリーズをリリースしていた日本物産(ニチブツ)など)が名を上げこの年からしばらくを乗り切った。1992年シーズンはソコソコの成績を残すも資金難は改善せず車両開発も思うように進まなかった。そして奇しくも因縁のあるセナの死を受けて大幅なレギュレーション改正が行われることとなった1995年シーズンに向けての車両開発をしていた所、これまた因縁深い無限(ホンダ)エンジンの供給をリジェと争うが敗北、戦闘力の向上の見込めないチームからは人材がヘッドハンティングされた他、新たな大口スポンサーも見つけられずチーム運営資金も捻出できず、ロータス・エンジニアリングの36年のF1参戦の歴史に終止符を打つこととなった。
- 89年も88年のようにプロストとの一騎打ちとなって迎えた日本GPの47周目、セナは130R立ち上がりで勝負を仕掛け、シケインへのアプローチでプロストのインに飛び込んだ。プロストは一瞬虚を突かれたが、すかさずステアリングをイン側へ切り込んだ。セナはブレーキングでイン側の優位を確保していたが、真横には並んでおらず、プロストにラインを被せられた。2台のマクラーレンは接触し、ホイールを絡ませたままコース上に停車しシケイン事件が起こった。チャンピオン争いは最終戦に持ち込まれると思われたが、コントロールタワーでは審議が続けられ、表彰式のスケジュールは遅れた。20分後に発表された公式結果では、セナは「シケイン不通過」により失格と判定されチャンピオンを逃した。
- 90年も同様プロストとの一騎打ちとなって迎えた日本GPのオープニングラップでの出来事だった。グリーンシグナルが灯った瞬間プロストが好ダッシュを決め、セナの前に出た。プロストはミラーでセナの位置を確かめ、マシンを軽くアウト側に振ってから1コーナーへアプローチした。セナはそのインに飛び込むが、左フロントタイヤがプロストのマシン後部に接触。両者は弾かれたようにサンドトラップに突っ込み、濛々と砂煙が上がった。相討ちによりスタート後わずか8秒でセナの2度目のタイトル獲得が決定した。
- 94年にウィリアムズへ勝利を求め移籍。第3戦サンマリノGPでの出来事。シューマッハを抑えてトップを走行していたセナが、タンブレロコーナーでコースアウトした。その後、セナは壁に衝突するまでの0.9秒間にブレーキングと6速から5速へのシフトダウンによって、312km/hから211km/hまで減速し、壊れたマシンから出されたセナは、ボローニャに近いマッジョーレ病院にヘリコプターで搬送された。
シューマッハがゴールラインを越えてから2時間20分後の18時40分、マリア・テレーザ・フィアンドリ医師はアイルトン・セナの死を発表した。公式の死亡時刻は14時17分、つまり即死だった。検死解剖の結果、死因は「大破したマシンのサスペンション部品が、ヘルメットを貫通した」と結論付けられた。
- なお死亡時刻については2説ある。
一方は14時17分(現地時間、以下同じ)の即死説、もう一方は18時40分の病院死亡説である。
実際はどうだったかというと、14時17分の事故直後に心肺停止状態となったが救急隊により蘇生し病院へ搬送。
その後脳死と判定され家族の同意の下延命治療を中止、18時40分に死亡と判定された。
- ロータスF1の歴史についての更なる詳細はWikipedia:チーム・ロータスを参照されたい。
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| | 余談
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- ノーマル以外のリアウィングを装着すると、ダウンフォース調整幅が1000〜2000から1005〜2020に変化する。
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