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|>|~分類|>|>|>|~性能|
|メーカー/国籍|マツダ/日本|総排気量|654x4cc|全長|4,782mm|
|カテゴリー1|Gr.1|最高出力|802PS/9,000rpm|全幅|1,994mm|
|カテゴリー2|プロトタイプレーシングカー/FIA-グループC2|最大トルク|71.2kgfm/6,500rpm|全高|1,003mm|
|内装|あり|駆動形式|MR|車両重量|830kg|
|年式|1991|吸気形式|NA|TM|5速|
|>|~入手方法|>|>|>|~セッティング他|
|ディーラー|Cr.100,000,000|制限|>|>|---|
|その他|---|特記|>|>|---|
//-備考:

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-マツダのモータースポーツの歴史の中で、恐らく最も有名な車両がこの「787B」だろう。
92年からの新グループC規格によるロータリーエンジン使用禁止(後に解禁)により、マツダにとって91年がル・マン挑戦最後のチャンスとなった。
90年のル・マンで惨敗した787に200ヶ所以上もの改良を施し、且つIMSA-GTP規定からグループC2規格に変更したものが本車である((本来のC2は車重1000kgだが、政治的駆け引きと昨年の惨敗から「ロータリー搭載車は830kg」という有利な裁定を引き込んだ…というのも有名な話。))。
90年のル・マンで惨敗した787に大規模な改良を施し、かつIMSA-GTP規定からグループC2規格に変更したものが本車である((本来のC2は車重1000kgだが、政治的駆け引きと昨年の惨敗から「ロータリー搭載車は830kg」という有利な裁定を引き込んだ…というのも有名な話。))。

-92年からの新グループC規格によるRE使用禁止(後に解禁)により、91年はマツダにとって最後のル・マン挑戦となった。
マツダの命運を背負った3台のマシンは、レナウンカラーの55号車と、マツダワークスカラーの18号車・56号車であった。
しかし、レースはメルセデス・ベンツC11の1号車・31号車・32号車が序盤からトップ3を独占。91年もメルセデスの圧勝かと思われた。

-ところがライバルチームにトラブルが続出した。原因は新グループC規格と、90年に新設されたユノディエールのシケインである。
故障上等・データ収集のために新規格車で参戦したプジョー905は、開始僅か2時間で計画的撤退という形で全滅。
旧規格マシンを持ち込んだメルセデスも32号車がトラブル、シューマッハ操る31号車も半日後にミッショントラブルで緊急ピットインし、後退。
旧規格車を持ち込んだメルセデスも32号車がトラブル、シューマッハ操る31号車も半日後にTMのトラブルで緊急ピットインし、後退。
メルセデス陣営は前年のレースを欠場していたため、ユノディエールのシケインに対応しきれていなかった。

-一方でマツダ陣営・787Bは、全開走行且つノントラブルで快走し、着実に順位を上げていった((とはいえ本当に全開だと最低燃費2.4km/lを割り込むので流石にリフトアンドコーストはしている。))。
787Bには前年の経験が存分に反映されていた他、エンジンを労わるために予め全使用ガソリンを濾過する等の徹底的な対策を講じていた。
-一方でマツダ陣営・787Bは、全開走行かつノントラブルで快走し、着実に順位を上げていった((とはいえ本当に全開だと最低燃費2.4km/Lを割り込むので流石にリフトアンドコーストはしている。))。
787Bには前年の経験が存分に反映されていた他、エンジンを労わるために使用ガソリンを濾過する等の徹底的な対策を講じていた。
また、他ライバル陣営が787Bの戦闘力を過小評価していた事も少なからず影響している((上記の車重830kgを受け入れてしまった件等。というか、JSPCやSWCで常に周回遅れにされていたマツダが、ル・マンでここまでの戦闘力を発揮するとはどの陣営も予想できなかった。))。
プジョー陣営・905が正にそうであったように、当時の技術では過酷なル・マンでの全開走行はリタイアと同義である。
プジョー陣営・905が正にそうであったように、過酷なル・マンでの全開走行は、当時の技術ではリタイアと同義であった。
常に全開走行を行っていた787Bが、本気で総合優勝を狙っている等とはどの陣営も全く思っていなかったのである。
こうして18番グリッドからのスタートだったマツダ55号車は、夜には4位にまで浮上していた。

-マツダ55号車は、ペースを上げつつその後もノントラブルで走り続けた。
レースは単独トップのメルセデス1号車に続き、ジャガーXJR-12・2号車とマツダ55号車の2位争いとなった。
「このまま行けば総合優勝はできなくとも入賞は確実だ」との意見もある中で、マツダは賭けに出た。
その時のスティントを担当していたジョニー・ハーバートに、続けてもう1スティント走行させたのである。
賭けは見事成功し、ジャガーを引き離してマツダ55号車は単独2位に浮上。悪燃費のV12エンジンを積むジャガーは追従できなかった。

-首位のメルセデス1号車を更に追い詰めるため、マツダの大橋監督は更なるペースアップを指示したが、これにはチーム内から難色の声が上がった。
-首位のメルセデス1号車を追い詰めるため、マツダの大橋監督は更なるペースアップを指示したが、チーム内からは難色の声が上がった。
総合2位はマツダ陣営の過去最高成績。ここで無理をしてエンジンを壊し、結果リタイアとなっては元も子もないからである。
しかしここで、R26Bエンジン設計グループ主任の栗尾氏が'''「うちのエンジンは、壊れない!」'''と一喝。
マツダのアドバイザーであった元F1ドライバー、ジャッキー・イクスのアドバイス、
『ドイツ人(メルセデス陣営)は必要以上にアドバンテージを求めたがる。こちらがペースを上げれば相手のエンジンに負荷を掛けられる』
という声でチーム内を落ち着かせ、マツダ55号車は更にペースを上げて走り続けた。

-結果、メルセデス1号車は目論見通り無茶なペースアップをしてしまい、オーバーヒートとトランスミッションのトラブルでリタイア。
レース開始から21時間、遂にマツダ55号車は単独トップに浮上した。
大橋監督は「メルセデス陣営は自分らのペースアップに惑わされず、3周の貯金を切り崩しながら走れば優勝できただろう」と後に語っている。
大橋監督は後に「メルセデスは自分らのペースアップに惑わされず、3周の貯金を切り崩しながら走れば優勝できただろう」と語っている。
この時メルセデス31号車との差は5周、もはや首位復帰は不可能であった。2~4位はジャガーが固める事となる。

-大橋監督はチームに緊張感を保たせるため、最後の最後までペースを下げさせなかった。
レース終了20分前の最終ピットインでも、既に1時間半近い連続走行を行っていたジョニー・ハーバートを交替させなかった。
タイヤ交換の際はメカニックの手が震え、その他マツダ関係者も時間の経過が恐ろしく遅く感じられたという。
永遠とも思えるような最後の1時間を駆け抜け、遂にチェッカーが振られる。マツダは362周を走り切ってル・マン総合優勝を獲得した。
マツダワークスカラーの18号車、56号車もそれぞれ6位と8位で完走を果たし、マツダ製ロータリーエンジンの高い信頼性の証明にもなった。
マツダワークスカラーの18号車、56号車もそれぞれ6位と8位で完走を果たし、マツダ製REの高い信頼性の証明にもなった。

-今なお数々の日本車がル・マンに挑戦し続けているが、ル・マンでの総合優勝という快挙を果たした日本車は、この787Bが初である。
マツダは大資本をバックに参戦してきた他日本勢と違い、ロータリーエンジンという独自技術と共に、長い年月を掛けて地道に参戦を続けてきた。
マツダは大資本をバックに参戦してきた他日本勢と違い、REエンジンという独自技術と共に、長い年月を掛けて地道に参戦を続けてきた。
そのマツダの総合優勝は、地元観客のみならず、他ワークスチームや世界中のモータースポーツファンからも大絶賛を受けた。
1973年の初挑戦から18年もの時を経て遂に勝ち取った、悲願のル・マン総合優勝であった。
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#region(余談)
-この派手なカラーは、レナウンの「マツダは勝てるはずがないだろう」という考えから、せめて目立つようにしようとした為にこうなったと言われている。
-この派手なカラーは、筆頭スポンサーRENOWNの「どうせ勝てないのならせめて目立て」という考えからこうなったと言われている。
これは89年の「767B」から92年の「MXR-01」まで続いた他、オープンプロトのKudzu DG-3やDLMにも使われた。

-この55号車(シャーシナンバー002)を保存する為、ル・マン終了後202号車が追加で生産された。
202号車も同じレナウンカラーだが、緑とオレンジの部分が逆になっている。またその当時の旧WECでは夜間走行がないレギュレーションだったので、ヘッドライトを外して、その部分をカバーで覆っている。
また、収録モデルの787Bは、車体のマーキングから「本当の」ル・マン優勝車ではなく、後期に制作されたレストア車を基にしてモデリングされた物である。
-この55号車(CN.002)を保存する為、ル・マン終了後に202号車が追加で生産された。
この追加生産された202号車も、55号車と同じRENOWNカラーだが、グリーンとオレンジの部分が逆になっている。
また、当時の旧WECでは夜間走行がないレギュレーションだったので、ヘッドライトを外してその部分をカバーで覆っている。

-1991年の勝利から時が経ち20年後の2011年、優勝20周年記念として787Bはサルトサーキットでのデモランがオファーされる。
ル・マン主催者のACOによる招待であり、普通数車種が一緒に1周走行するのが通例だったが、単独車種のデモランで2周という破格の待遇で、20万人以上の観客が集まったとされている。
この時ばかりはマツダも当時使わなかった10000回転まで開放(下記参照)という大盤振る舞いを行った。詳細は[[マツダ公式サイト>http://www.mazda.co.jp/philosophy/rotary/lemans/]]を参照。
-1991年の勝利から20年後の2011年、優勝20周年記念として787Bはサルト・サーキットでのデモランがオファーされる。
ル・マン主催者のACOによる招待であり、普通数車種が一緒に1周走行するのが通例だったが、単独車種のデモランで2周という破格の待遇であった。
この時ばかりはマツダも当時使わなかった10000回転まで開放という大盤振る舞いを行った。

-レース終了数時間前からの長時間走行により、ジョニー・ハーバートは脱水症状を起こして下車と共にダウン。医務室に直行してしまい表彰台に上がれなかった。
デモランを行った際、ジョニーは当時と同じように下車後にマシンに倒れ込み、スタッフに担がれて表彰台へと運ばれるというパフォーマンスで笑いを誘った。ジョニーは20年の時を経て、初めて表彰台の頂点に立つ事となったのである((ジョニーは2003年に2位で登壇した経験はあるが、頂点に登った経験は無かった。))。
-レース終了数時間前からの長時間走行により、ジョニー・ハーバートは脱水症状を起こして下車と共にダウン。
医務室に直行してしまい、表彰台に上がれなかった。これは本作のブランドセントラル・ミュージアムで確認できる。
デモランの際、ジョニーは当時と同じように下車後にダウンし、スタッフに担がれて表彰台へと運ばれるというパフォーマンスで笑いを誘った。
ジョニーは20年の時を経て、初めて表彰台の頂点に立つ事となったのである((ジョニーは2003年に2位で登壇した経験はあるが、頂点に登った経験は無かった。))。

-マツダはこのデモランのためにフルレストアを施したが、現在ではデモランをするにも慎重さを求められる難しいクルマ。
この手の車両では常識だが787Bも例外なくワンオフ製作の部品が満載である。ところが、マツダにも在庫パーツは殆どないうえ新規パーツを製造するコストも馬鹿にならない。
加えて、既にレースを離れて久しい現在のマツダに製造技術が残っていないため、新たなオーバーホールは非常に困難と見られている。
上記20周年時の組みなおしも、わざわざ当時のメカニックを呼んで行ったほど。
特にエンジンとカウリングは、予備もなく新規製造も不可能であり、それらを含むフルレストアは今回が最後と言われている。

-一応エンジン本体のレブリミットは10000回転とされているが、ミッションが耐えられないという判断で常用のリミットは8500回転。今では壊れたらもう終わりという事もあり、7000回転に制限されている。
なぜデモランで10000回転OKだったかというと、ミッションは破壊しても楽勝で手に入る((ポルシェ956/962用なので、ヒストリックカーレース需要もあり未だ取引対象にされている))からである。

-前作GT6まではキャビン後部に架空のドライバーネームが書かれていたが、本作ではしっかり55号車をドライブしたフォルカー・ヴァイドラー、ジョニー・ハーバート、ベルトラン・ガショーの3人の名前が記されている。
-GT5~6では現存する55号車の仕様で収録されていたが、本作では91年にル・マンを戦った当時の仕様がしっかりと再現されている。
また、前作まではキャビン後部に架空のドライバーネームが書かれていたが、本作では55号車をドライブした3名の名が正確に記されている。
この他、エンジン音を2度のアップデートで改良し、細かなテクスチャミスも修正する等、相当な熱意で制作した事が伺える。
#endregion
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